感[#「実感」に丸傍点]を、その時々の感じに応じて様々に具象させたもので、画工の想像力によってよりぴったりとその「怪」「魔」「鬼気」等の無形の実感を表現させたものである。
更にまた、われわれは、物象を一つじっと見ているとその実在感が変に神秘的に見え、時によるときみ悪くみえて来る事がある。妖怪変化の中、器物に手足が生《は》え顔が生じたり、している奴があるが、これらはそういう実感を具象したものである。
幽霊の方はどっちかいうと、幽霊の幻覚がモティフになっているから足がないのであるが、これに反して、妖怪に足のあるのは、それが全然、想像的な創作だからである。殊に、目のないところに目をつけたり手や足を生やすことが一つの「怪」の気持をなすからで、此処へ行くと幽霊の方が、リアリスチックであるが、またそれだけに「怪」としての味ではポピュラーである。
一つ目小僧の味
私は一目小僧という妖怪を、妖怪創作家としての日本民族の一つの大なる傑作だと思っている。
ちょっと考えると、この妖怪は少しも恐ろしい事はないむしろ滑稽《こっけい》な幼稚な想像のように思えるが、その人はまだ一つ目小僧の本質の味を味識していないのである。
一つ目小僧というものを、普通にとりあつかっているよりもっと進んだ感覚でとりあつかってみる時、即ち、もっと、リアリスチックに、生きたものとして感じてみる時、皮膚を持ち肉を持った生きたものとして感じてみる時、それは誠にきみのわるい、生々しい、そしてミスチックな生きものである。
一つ目小僧を滑稽なものと感じる感覚は一つ目小僧を生のものとして感じず、張子《はりこ》か何かの細工ものとしてのそれを考えているからである。三つ目小僧の如きに至っては、一つ目小僧の如く実感から生れたものでなく、一つ目に対して、三つにしたものか、普通人の二つ目に一つを加えてこしらえた、考案から成り立った概念的なもの故、それはどうしても張り子のでく[#「でく」に丸傍点]のような感じがともなう。まして、ろくろ首にしたり、鉄棒を持たせたり大入道《おおにゅうどう》にして、ラングイヒゲを生やしたりすると一層滑稽になる。
一つ目の味はぬるりとしたちょっと奇形児の如《ごとく》なきみのわるいところにある。一体日本の妖怪の凄さはそういうところにある。この事は後項にややくわしく考えよう。
ともかく一つ目
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