めいめいで巣の方に運んで行く。そうしていずれも皆同じ道を通るものであるから、彼らの通る道はじきに滑らかに平たくなって、草原の中を馬車が通った跡のようになる。」
[#ここで字下げ終わり]
とある。かくのごとくこの蟻は木の葉を切っては巣に持ち帰るので、それで葉切り蟻と名づけられているのであるが、彼らはなんのためにかかる労働をなしつつあるか。辛抱してその話も聞いてください。[#地から1字上げ](十月四日)
五の二
きょうはきのうの葉切り蟻の話の続きである。
この蟻が木の葉を切っては盛んに自分の巣に持ち運びつつあるというベーツ氏の観察は、きのうの紙上に訳載したが、ベーツ氏は、その蟻がなんの目的のためにかかる苦労多きめんどうなる仕事をなしつつあるかはこれを説明し得なかったのである。もっとも氏自身は、これは地下の巣に至る入り口をふさぐためのものだと説明し、それで充分にその理由を発見し得たと思っていたのであるが、それが間違いであったという事は後にトマス・ベルト氏の観察によってわかって来たのである。
このベルトという人は鉱山の技師としてニカラガにいたのである。専門の博物学者にはあらざれども、昆虫《こんちゅう》の生活状態を研究することに特別の趣味を有しいたる人にて、この人が初めてこの葉切り蟻が菌《きのこ》を培養しつつあることを発見したのである。もっとも氏が始めてかかる事実を発表したる時には、何人もこれを信ずる者なく、専門学者はすべてその虚構を嘲笑《ちょうしょう》したのであるが、その後専門学者がだんだん研究に着手してみると、ただにベルト氏の言った事が間違いにあらざるのみならず、氏の報告以外さらに種々の事実が次第に確かめらるることとなったのである。
ベルト氏は葉切り蟻の巣をばただに土地の表面より観察するばかりでなく、さらに土を掘って巣の内部をのぞいてみたのである。ところが地下にはたくさんのへやがあってその中のある者は丸くて、直径五インチぐらいの広さになっておる。そうしてそのへやのほとんど四分の三ぐらいは、ポツポツのあるとび色の海綿ようの物で満たされておるが、そのほかには蟻が盛んに持ってはいる青い木の葉は全く見つからぬ。これはどういうわけかというと、木の葉はいつのまにか変わってこんな海綿ようのものになっているので、そうしてその海綿ようのものにはたくさんの菌《きのこ》ができているのである。蟻の幼虫はこのへやに連れられて来ていて他の蟻が菌を切ってはそれを食べさしている。この幼虫を養育することは小さい方の職蟻《しょくぎ》の仕事であるが、大きい方の職蟻は菌の床《とこ》を造ることをセッセとやっている。すなわち青い木の葉がへやの内に運ばれて来ると、それをすぐ小さな片に切り、一々それをなめてはそうじしながら、小さな団子に丸め、それをだんだん積んで行くのである。そうしてそれが室内の温気と湿気とで蒸されて、だんだん菌がそれにはえるようになるのである。もしそれが新しい床であったならば、古い床から菌の種子《たね》を持って来て、それを新しい床に植え付けるのだということである。そうしてもし人間がその床を切り取って巣の外に持ち出し、適当な場所に置いておくならば、直径六インチぐらいの大きな菌ができるが、蟻はそんなに大きな菌は好まぬので、小さなつぼみができるとすぐにそれを切り取って大きくはせぬということである。(一九一五年出版、ステップ氏『昆虫生活《こんちゅうせいかつ》の驚異』二八ページ以下による*)。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
* Edward Step, Marvels of Insect Life, 1915. pp. 28−−34.
[#ここで字下げ終わり]
さて葉切り蟻が菌《きのこ》を栽培せる様子はだいたい上述のごとくであるが、これはよく考えてみると、実に驚くべきことである。何ゆえというに、この蟻のすんでいる地方には、天然の菌がたくさんにできるのだけれども、ただそれには一定の季節がありまた気候や湿気の具合でその供給に変動がある。そこで年じゅう一定の菌を食べようと思えば、暗い場所へ菌の床《とこ》を作って温度を加減して行かねばならぬので、現に今日われわれ人間が菌の人工培養をするのは、つまりそういう方法によってやっているのであるが、この葉切り蟻は人間よりも先にそういうことを発明しているのである。ことに彼らが切り取って来る木の葉そのものは、全く彼らの食料とはしないものである。そういうようなさしあたって役に立たぬ物を一たん取って来て、しかる後その目的とするところの食物を作り出すなどということは、経済学者のいわゆる迂回的《うかいてき》生産に属するもので、いかにも彼らの知識は高度の進歩を遂げているものと見なければならぬのである。[#地から1字上げ](十月五日)
五の三
加藤《かとう》内閣ができるはずに聞いていたのが、急に寺内《てらうち》内閣が成立しそうなという話なので、平生当面の時事には無関心のこの物語の筆者も、ちょっとだまされたような気持ちがする。しかしそれはそれとして、私はこの物語の本筋をたどるであろう。
さて私が前回に葉切り蟻《あり》の話をしたのは、昆虫《こんちゅう》社会にもなかなか経済の発達した者がいるという事を示さんがためであった。わずかに一例をあげたにとどまるが、ただこの一例に徴するも、もしわれわれが太古野蛮の時代にさかのぼってみるか、または今日でも未開地方に住む野蛮人の状態について見るならば、ある方面ではかえってわれわれ人間の方が蟻などよりもだいぶ劣っているかと思われる事情があるのである。しかるにもかかわらず、今日われわれ人間の経済が次第に発達を遂げ、ついに今日のごとき盛観を呈するに至ったのは、実はその根底、その出発点において、ある有名なる特徴を有するがためである。今その特徴をなんぞやと問わば、そは道具の製造という事である。この事はかつて本紙に連載せし「日本民族の血と手」と題する拙稿(大正四年発行拙著『祖国を顧みて』に収む)の一部において、私のすでに言及したところである。私は学校の講義のように、今年もまた同じ事をここに繰り返したくはないけれども、ただいかんせん這個《しゃこ》の一論は、私の経済論の体系の一部を成すもので、これに触れずして論を進むるは事すこぶる困難なるを覚ゆるがままに、しばらく読者の寛恕《かんじょ》を請うて再び同一の論を繰り返す。ただしなるべく化粧《けしょう》を凝らして、人目につかぬようそっとこの坂道を通り越すであろう。
そこで話を遠い遠い昔の、今より推算すれば約五十万年前の古《いにしえ》にかえす。そのころジャバに猿《さる》に似た一人の人間――私はかりに人間と名づけておく――が住んでいた。無論一人で住んでいたわけではなく、仲間もたくさんいたことであろうが、ただ一人だけのことしか今日ではわからぬ。もっともその一人の人について言っても、その人がはたしてどんな暮らしをしたか、どんな事を考えていたか、女房がいたか、子供がいたか、そんな事は少しもわかっていないが、ただそういう一人の人がいたということだけは確かにわかっている。それは今から二十余年前、一八九一年にオランダの軍医デュブアという人が中央ジャバのベンガワン川に沿うて化石の採集をしていたころ、トリニルという所の付近で、たくさんの哺乳《ほにゅう》動物の遺骨の中から一本の奥歯を発見したのであるが、それがすなわち先に言うところの五十万年前の人間が遺《のこ》して死んだ臼歯《うすば》の一|片《きれ》である。そこでデュブア氏はなおていねいに土を掘ってゆくと、先に奥歯の発見された所から約三尺ばかり隔てた場所で頭蓋骨《ずがいこつ》の頂《いただき》を発見した。それからさらに引き続き発掘をしていたところが、今度は頭蓋骨の発見された所から八|間《けん》あまり隔てた場所で、左の大腿骨《だいたいこつ》と臼歯をもう一本だけ発見したのである。
くわしいことは私の専門外だから略しておくが、これが今日人間といえばいい得らるる者のいちばん古い遺骨であって、学問上ではこの人間を名づけてピテクァントロプス(猿《さる》の人)といっているそうである。しかしこれがはたして今日の人間の直系の祖先に当たるものか否かについては議論があるが、ともかく大腿骨が出たので、その構造から考えてみて、この猿の人なるものは直立していたということはわかるし、また頭蓋骨の一部が出たので、その者の脳髄も相当に発達していたということもわかる。元来われわれ人間が道具を造り出しうるに至ったのは、われわれが直立して二本の足で楽にからだをささえうるようになってからの事である。すでにからだがまっすぐになって来ると、それに伴うて二本の手が浮いて来て、全く自由なものになると同時に、頭がからだの中心に位することになって、始めて脳髄が充分な発達を遂げうるのである。――獸《けだもの》のように四つ足を突いて首を前に出していては、到底重い脳みそを頭の中に入れておられるはずのものでない。猩々《しょうじょう》、猿の人、曙《あけぼの》の人(後に述ぶ)、現代人と、だんだん姿勢が直立して来るに従って、脳髄も次第に大きくなって来るありさまは、ここに挿入《そうにゅう》せる図によりてその一斑を知らるべし。――そこでその発達した脳髄でもって自由な手を使うことになったから、始めて人間特有の道具の製造が始まるのであるが、今この猿の人なるものがはたして道具を造っていたか否かに至っては、別に確かな証拠はないが、たぶん木及び石でできたきわめて幼稚な道具を使っていただろうというのが、オスボーン氏の説である*。[#地から1字上げ](十月十三日)
[#「脳髄の大きさの比較」の図(fig18353_07.png)入る。「(実物の二分の一大)」とあるのは底本では「(実物の五分の二大)」]
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
* H. F. Osborn. Men of the Old Stone Age, 1916. pp. 82, 83, 86.
[#ここで字下げ終わり]
五の四
同じような話が重出《ちょうしゅつ》するのでおもしろくないが、物語を進めるために、今一つ似寄ったお話をしなければならぬ。それは今よりわずかに五年前、一九一一年に英人ドウソン氏の発見した人間の骨の化石のことである。
ドウソン氏はこれより先数年前、英国サセックス州のビルトダウンの共有地に近い畑で道路を作るために土を掘った時、人間の顱頂骨《ろちょうこつ》の小さな片を発見したことがある。ところが一九一一年の秋、氏は同じ場所から出た発掘物の中より、先に発見した頭蓋骨《ずがいこつ》の他の部分で、額《ひたい》に相当する大きな骨と、鼻から左の目にかけての部分に相当する骨とを発見した。そこでこれは大いに研究の価値があるということをいよいよ確かめたので、一九一二年の春すなわち今から四年前に、人夫を督して大捜索を始めたのである。ところが骨は方々に散ってしまった様子で容易に何ものも発見できなんだ。しかしそれに屈せずなお根《こん》よく捜していたところが、始めて顎《あご》の右半分が見つかり、さらにそこから三尺ばかり隔てた所で後頭骨が見つかったのである。なおその翌年すなわち今から三年前には、フランスの人類学者のテイラー氏が同じ場所を重ねて発掘して、さらに犬歯《いぬば》を一本と鼻の骨とを発見したのである。そんな関係からこの人間の頭の骨もほぼ整ったのであるが、学者の説によると、これは今から十万年ないし三十万年前の人間の骨だということである。
さてこの人間は今日学者が名づけてエアントロプス(曙《あけぼの》の人)といっている者である。そうしてこの人間がはたして今日の人間の直系の祖先であるか、または同じ祖先から出た枝で、すでに子孫の絶滅したものであるかという点になると、学者の説がまだ一致しておらぬそうだが、ともかく前回に述べた『猿の人』に比ぶれば、年代も新しくかつ今日の人間に近い系統のもので
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