Xの利益になっているという確信、それだけの確信をば、すべての実業家に持っていてもらいたいものだというのである。
思うにすべての実業家が、真実かくのごとき標準の下にその事業を選択し、かくのごとき方針の下にその事業を経営し行くならば、たとい経済組織は今日のままであっても、すべての事業は私人の営業の名の下に国家の官業たる実を備え、事業に従う者も名は商人と言い実業家と言うも、実は社会の公僕、国家の官吏であって、得るところの利潤はすなわち賞与であり俸給《ほうきゅう》である。かの経済組織改造論者はすべて今日私人の営業に属しつつあるものをことごとく国家の官業となし、すべての人をことごとく国家の官吏にしようというのであるが、個人の心がけさえ変わって来るならば、たとい経済組織は今日のままであっても、組織を改造したるとほとんど同じ結果が得らるるのである。
他人との競争について考えても同じことである。私は決して競争を否認するものではない。もし自分の売り出している品物の方が、同業者のよりも実際安くてよい品物であり、また自分の方が他人よりもそのもうけた金をば真実社会のため、事業そのものの発達のため、より有効に使用しうるという確信があるならば、いくら他人を押しのけ自分の販路を拡張したとて毫《ごう》もさしつかえはない。日々新聞紙に一面大の広告をして世間の耳目をひくもよかろうし、それがため他人の金もうけの邪魔をする事になっても、それはいたしかたのない事である。またたくさんの金をためているということも決して悪い事ではない。これは天下の宝である、みだりに他人の手に渡す時は必ずむだな事に使ってしまうから、自分が天下のために万人に代わってその財産を管理しているという信念の下に、金をためているのならば、少しもさしつかえないことだと思う。その代わりかかる信念を有する人々は、いくら金をもうけ、いくら財産をこしらえても、これを一身一家の奢侈《しゃし》ぜいたくには使わないはずである。思うにかくのごとくにして始めていっさいの社会問題は円満に解決され、また始めて実業と倫理との調和があり、経済と道徳との一致があり、われわれもこれによりてようやく二重生活の矛盾より脱することを得、銖錙《しゅし》の利を争いながらよく天地の化育を賛《たす》けつつありとの自信を有しうるに至るのである。よってひそかに思う、百四十年前|自己利益《セルフ・インタレスト》是認の教義をもって創設され、一たび倫理学の領域外に脱出せしわが経済学は、今やまさにかくのごとくにして自己犠牲《セルフ・サクリファイス》の精神を高調することにより、その全体をささげて再び倫理学の王土内に帰入すべき時なることを。もしそれ利己といい利他というもひっきょうは一のみ。今曲げてしばらく世間の通義に従う。高見の士、請うこれを怪しむことなかれ。
[#地から1字上げ](十二月二十三日)
十三の二
頭脳の鋭敏なる読者は、私が貧乏退治の第一策として富者の奢侈《しゃし》廃止を掲げおきながら、その第一策を論ずる中に、私の話は一たびは富者を去って一般人のぜいたくに説き至り、さらに消費者責任論より生産者責任論に移りしを見て、ことに私の脱線を怪しまれたであろう。しかしこれはただ論を全うするためで、私の重きを置くところは飽くまで、富者の奢侈廃止である。
すなわちこれを生産者の責任について論ぜんか、すでに述べしがごとく、需要と生産との間にはもとより因果の相互関係ありといえども、しかもそのいずれが根本なりやと言わば、需要はすなわち本《もと》で、生産はひっきょう末である。されば社会問題の解決についても、消費者の責任が根本で、生産者の責任はやはり末葉たるを免れぬ。何ゆえというに、極端に論ずれば、元来物そのものにぜいたく品と必要品との区別があるのではなくて、いかなる物にてもその用法いかんによって、あるいは必要品ともなりあるいはぜいたく品ともなるからである。
たとえば米のごときは普通には必要品とされているけれども、これを酒にかもして杯盤|狼藉《ろうぜき》の間に流してしまえば、畳をよごすだけのものである。世の中に貧乏人の多いのは生活必要品の生産が足りぬためだという私の説を駁《ばく》して、貴様はそういうけれども、日本では毎年何千万石の米ができているではないかと論ぜらるるかたもあろうが、実はそれらの米がことごとく生活の必要を満たすために使用されているのではない。徳川光圀《とくがわみつくに》卿《きょう》の惜しまれた紙、蓮如《れんにょ》上人《しょうにん》の廊下に落ちあるを見て両手に取っていただかれたという紙、その紙が必要品たるに論はないけれども、いかなる必要品でも使いようによっては限りなくむだにされうるものである。たとえばまたかの自動車のごときは、多くの人がこれをぜいたく物というけれども、しかし医者が急病人を見舞うためなどに使えば、無論立派な必要品になる。
かくのごとくすべての物がその使用法のいかんによって必要品ともなればぜいたく物ともなりうるものであるから、いくら生産者の方で必要品を作り出すように努めたからといって、消費者が飽くまでも無責任に濫用《らんよう》すれば、到底いたしかたのない事になる。それゆえ、私は生産者の責任よりも消費者の責任を高調し、一般消費者の責任よりも特に富者の責任を力説したのである。しかし富者も貧者も消費者も生産者も、互いに相まっておのおのその責任を全うするに至らなければ、完全に理想的なる経済状態を実現するを得ざること言うまでもなきことである。
× × ×
私が貧乏退治の第一策というは以上のごときものである。思うにもしここまで読み続けられた読者があるならば、中には実につまらぬ夢のごときことを言うやつじゃと失望されたかたもあろうが、私は自叙伝の作者たるゼー・エス・ミルになろうて、それらの読者には、ひっきょうこの物語は自分らのために書かれたものではないのだと思って勘弁してください、と申すよりほかにしかたがない。しかも万一前後の所論につきこの物語の著者と多少感を同じゅうせらるる読者があるならば、それらの読者を相手に私は今少し述べたいことがある。
私は先に消費者としてまた生産者としての各個人の責任を述べ、ひいて経済と道徳との一致を説いたが、これにつけて思い出さるるは、中庸の「道は須臾《しゅゆ》も離る可《べ》からず、離る可きは道に非《あら》ざる也《なり》」の一句である。思うに世の実業界に活動するもの往々道徳をもって別世界の事となし、まれにこれを口にするも、わずかに功利の見地より信用の重んずべきを説くの類に過ぎずといえども、もし余の説くところにして幸いに大過なからんか、朝《あした》より夕《ゆうべ》に至るまで、※[#「尸+阿」、156−11]屎《あし》送尿《そうにょう》著衣《ちゃくい》喫飯《きっぱん》、生産消費いっさいの経済的活動を通じて、すべてこれ道ならざるはなく、経済の中に道徳あり、経済すなわち道徳にして、はたして道は須臾も離るべからず、離るべきは道にあらざることを知るに足る。余大学の業をおえ、もっぱら経済の学に志してより今に至って十有四年、ようやく近ごろ酔眼|朦朧《もうろう》として始めて這個《しゃこ》の消息を瞥見《べっけん》し得たるに似るがゆえに、すなわちこの物語に筆を執りいささか所懐の一端を伸ぶ。しかりといえども、この編もし過《あやま》りて専門学者の眼《まなこ》に触るることあらば、おそらく荒唐無稽《こうとうむけい》のそしりを免れざらんか。[#地から1字上げ](十二月二十五日)
十三の三
ありがたい事には、この物語も今日《こんにち》で無事に終わりを告げうることとなった。私は最後の一節に筆を執るに臨み、まず本紙(大阪朝日新聞)の編者が、休み休み書いたこの一学究の随筆のために、長く貴重なる紙面をさき与えられしことを深く感謝する。
さて私は最後に世界の平和について一言するであろう。思うに欧州の天地は今や大乱爆発して修羅《しゅら》のちまたと化しつつあるが、何人もこの大戦の真の当局者が英独二国なることを疑う者はあるまい。しからばなんのためのこの両国の葛藤《かっとう》ぞというに、ひっきょうは経済上における利害の衝突、これが両国不和の根本的原因である。
今私はその利害の衝突についてくわしく説明する余暇をもたぬけれども、要するに英独両国はすでに製品輸出の競争時代を経て資本輸出の競争時代に入りしこと、これがそもそも不和の根元である。
けだし一国の産業がある程度以上の発達をなす時は、商工業上の利潤が次第に集積されて資本が豊富になるために、これを国内の事業に投ずるよりも、むしろその余分の資本はこれを海外の未開国に放下する方、はるかに高率の利益をあげうることとなる。かくて貨物の輸出と同時に資本の輸出が経済上きわめて重大な問題になって来るのである。しかしてかの英国は今より五六十年前早くもかかる時代に到達せしもので、爾来《じらい》英国は南北両アメリカを始めとし、その他世界の諸地方に向かって盛んにその資本を輸出せしもので、現にその資本の利子のため毎年巨額の輸入超過を見つつありし事情は、人のよく知るところである。
英国に次いで資本輸出の時代に入りしものは仏国であった。しかしながら、仏国は次に述ぶるがごとき二個の理由によって、資本の輸出に関してはさして有力なる英国の競争者となり得ざりしものである。その第一理由は、同国における人口増加の停止である。これがため人口一人当たりの富は無論増加せしも、全国における資本増殖の速度は到底英国のごとく盛んなることあたわざりしものである。その第二の理由は、一般にフランス人は保守的なりということである。かかる事情にもとづき、同国の資本は主としてスペイン、ベルギー等の隣国に放下され、世界の資本市場においては到底有力なる英国の競争者となり得ざりしものである。されば久しき間世界の資本市場はほとんど英国の独占に帰していたのである。しかるに近時ドイツはにわかに産業上の大進歩を遂げ、まもなく資本輸出の時代に入りしのみならず、ことに今世紀に入るに及びては、年を追うてますます大規模の資本輸出を試むることとなり、これがため従来ほとんど英国の一手に帰属せし世界の資本市場は、ここに有力なる競争者を加え、英国の利益は日に月にますます脅迫せらるることとなった。かくのごとくにして英独両国の葛藤《かっとう》は結びて久しく解けず、ついに発して今次の大戦となるに至りしものである。
以上はしばらくセリグマン教授の解釈に従ったものであるが(同氏著『現戦争の経済的説明*』による)、私が今この事をここに引き合いに出したのは、これらの諸国が資本輸出の競争のために幾百万の生民の血を流さなければならぬという事が、ある意味においていかにも不思議であるからである。
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* Seligman, The Economic Interpretation of the War, 1915.
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今英国人にとっては縁もなき異国人たる私が、改めて彼らのために説くまでもなく、たとえば『エコノミスト』主筆ウィザース氏がその近業『貧乏とむだ*』の中に詳論せるがごとく、今日英国の本土内においても起こすべき仕事がなおたくさんにあるのである。私はこの物語の上編において、いかに英国民の大多数が貧乏線以下に沈落して衣食なお給せざるの惨状にあるかを述べたが、これら人々の生活必要品を供給するだけでもすでに相当な仕事が残っていると言わなければならぬ。さるにもかかわらず、最も資本に豊富な世界一の富国たる英国において、それらの仕事が皆放棄されたままになっているのは、それら貧乏人の要求に応ずべき事業に放資するよりも、海外未開地の新事業に放資する方がもうけが多いからである。かくて世界一の富国たる英国は同時に世界一の貧乏人国として残りつつ、しかも資本の輸出の競争のために国運を賭《と》して
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