ェ五年より一九〇八年にわたるの間、総人員十八万六千五百七十九人について調べた結果で、平均以上の体重を有するものの死亡率を表わしたものであるが*、これによって見ると、太った人の成績は思いのほかよくないのである。
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* Fisher, How to Live, 1915, p. 213.
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               年齢 二〇―二四 二五―二九 三〇―三四 三五―三九 四〇―四四 四五―四九 五〇―五六 五七―六二
                      %     %     %     %     %     %     %     %
五ないし十ポンド過重┌平均以下の死亡率   四     七     一     〇     六     ―     ―     ―  
          └平均以上の死亡率   ―     ―     ―     ―     ―     三     二     二  
十五ないし二十ポンド┌平均以下の死亡率   四    一〇    一四     ―     ―     ―     ―     ―  
過重        └平均以上の死亡率   ―     ―     ―     一    一〇     九    二一    二五  
二十五ないし四十五ポ┌平均以下の死亡率   ―     ―     ―     ―     ―     ―     ―     ―  
ンド過重      └平均以上の死亡率   一    一二    一九    三一    四〇    三一    二四    一二  
五十ないし八十ポンド┌平均以下の死亡率   ―     ―     ―     ―     ―     ―     ―     ―  
過重        └平均以上の死亡率   三    一七    三四    五五    七五    五一    四九    三八  
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 右の表によって見れば、平均より少しでも肥えている者は、四十五歳以上は例外なく、並みの人に比べてすべて死亡率が多いのであるが、ことに平均より二十五ポンド(一ポンドは約百二十匁)以上太っている者になると、二十歳以上ことごとく死亡率が多いことになっているので、たとえば平均体重より五十ポンド以上太っている者などは四十歳より四十四歳の間においてその死亡者数は平均数を超過すること百人につき七十五人の多数に上りつつあるのである。
 これに比ぶれば、やせ過ぎている者のほうがむしろはるかに安全である。試みに次に掲ぐる一表を吟味せよ。こは前と同じ会社が同じ期間に、総人員五十三万百八人について調べた結果で、この方は平均以下の体重を有する者の死亡率を現わすものであるが*、その成績は太り過ぎた者よりもはるかによいのである。
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* Fisher, Ibid., p. 219.
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               年齢 二〇―二四 二五―二九 三〇―三四 三五―三九 四〇―四四 四五―四九 五〇―五六 五七―六二
                      %     %     %     %     %     %     %     %
五ないし十ポンド過少┌平均以下の死亡率   ―     一     ―     九    一五     三    一〇     七  
          └平均以上の死亡率   七     ―     四     ―     ―     ―     ―     ―  
十五ないし二十ポンド┌平均以下の死亡率   ―     ―     ―     ―    一三     一     八    一八  
過少        └平均以上の死亡率  一五     八     〇     三     ―     ―     ―     ―  
二十五ないし四十五ポ┌平均以下の死亡率   ―     ―     ―     ―     三    一一     九    一九  
ンド過少      └平均以上の死亡率  三四    一六     八     二     ―     ―     ―     ―  
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 右の表によりて見れば、最もやせた人すなわち平均より二十五ポンドないし四十五ポンドも体重の少ない者にあっても、三十代を越して四十歳以上になるとすべて平均よりも死亡率が少なくなるのである。
 表を掲げたついでにすぐ引き続いて述べたい事があるが、余白がなくなったから残りは明日に回す。[#地から1字上げ](十二月二十一日)

       十二の六

 だれも長生きがしたいがために、肥ゆれば喜びやすれば悲しむけれども、前回に証明したるごとく、実は太り過ぎているよりもやせている方がはるかに安全なのである。財産もまたかくのごとし。その乏しきこと度に過ぐるはもとより喜ぶべきことにあらざれども、その多きこと度に過ぐるもまたはなはだのろうべきことである。ことに肥えたと言いやせたと言うもからだだけのことならばその差もおおよそ知れたものであるが、貧富の差になると、すでに上編に述べたるごとく、今日は実に驚くべき懸隔を示しておるのであるから、経済学者という医者の目から見ると、貧の極におる人も、富の極におる人も、いずれも瀕死《ひんし》の大病人なのである。たとうれば、今日の貧乏人は骨と皮とになって、血液もほとんどかれ果てたる病人のごときもので、しかもそういう病人の数が非常に多いのである。しかし金持ちはまた太って太ってすわれもせず歩けもせず、顔を見れば肉が持ち上がって目も口もつぶれてしまい、心臓も脂肪のためにおさえられてほとんど鼓動を止めおるがごとき病状にあるものである。貧乏人に比ぶればその数は非常に少ないが、しかしこれもなかなかの重病患者である。
 人は水にかわいても死ぬがおぼれても死ぬものである。しかるに今や天下の人の大多数は水にかわいて死んで行くのに、他方には水におぼれて死ぬ者もある。それゆえ、私はここに回を重ねて富者に向かいしきりにぜいたく廃止論を説く。奢侈《しゃし》の制止、これ世の金持ちが水におぼるるの富豪病より免るる唯一の道なるがためである。
 貧乏人は割合に気楽である。衣食給せざるがためにおのれが身心を害する事あるも、これがためおおぜいの他人に迷惑を及ぼすという事はまれである。しかし金持ちはぜいたくをするがためにただにおのれが身心を害するのみならず、同時に世間多数の人々の生活資料を奪うのであるから、その責任は重大である。自分が水におぼれて死ぬのみではなく、自分が水におぼれて死ぬがために、天下の人を日射病にかからすのであるから、その責任は実に重大である。古人も「飲食は命を持《たも》ちて飢渇を療するの薬なりと思うべし」と言っておられる。ただその薬なきために一命を失うもの多き世に、薬を飲み過ぎて死んでは申し訳なきことである。一夜の宴会に千金を投じ万金を捨つる、愚人はすなわち伝え聞いて耳をそばだつべきも、ひっきょうはなんの世益なくやがては身を滅ぼすの本《もと》である。
 ひそかに思うに、世の富豪は辞令を用いずして官職に任ぜられおるがごときものである。私はすでに中編において、今日社会の生産力を支配しつつあるものは一に需要なる旨を説いた。しかるにその需要、その購買力を有すること最も大なるものはすなわち富豪なるがゆえに、ひっきょう社会の生産力を支配し指導する全権はほとんど彼らの掌中にゆだねられているのである。貧乏人もおのおの多少ずつの購買力は有しているが、もちろんそれはきわめて微弱なもので、たとえば衆議院議員の選挙権のごときものである。これに比ぶれば、富豪の購買力は、議会の多勢に擁せられて内閣を組織しつつある諸大臣の権力のごときもので、かつその財産を子孫に伝うるは、あたかも天下の要職を世襲せるがごときものである。古《いにしえ》より地獄の沙汰《さた》も金次第という。今この恐るべき金権を世襲しながら、いやしくもこれを一身一家の私欲のために濫用するがごときことあらば、これまさに天の負託にそむくというもの、殃《わざわい》その身に及ばずんば必ず子孫に発すべきはずである。このゆえに、富を有する者はいかにせば天下のためその富を最善に活用しうべきかにつき、日夜苦心しなければならぬはずである。ぜいたくを廃止するはもちろんのこと、さらに進んではその財をもって公に奉ずるの覚悟がなくてはならぬと思う。[#地から1字上げ](十二月二十二日)

       十三の一

 私はすでに前回の末尾において、富者はその財をもって公に奉ずるの覚悟がなくてはならぬと言ったが、かく言うことにおいて、私の話はすでに消費者責任論より生産者責任論に移ったわけである。
 私はかつて、需要は本《もと》で生産は末であるから、われわれがもし需要さえ中止したならば、ぜいたく品の生産はこれに伴うて自然に中止せられ、その結果必然的に生活必要品の供給は豊かになり、貧乏も始めて世の中から跡を絶つに至るであろうと述べた。それゆえ私は消費者――ことに富者――に向かってぜいたくの廃止を説いたのであった。しかしさらに考えてみるといかに需要はあっても、もし生産者においていっさいのぜいたく品を作り出さぬという覚悟を立つるならば、それでも目的は達し得らるべきはずである。
 世間にはいくらでも需要のある品物で、それを作って売り出せば、たやすく一掴《いっかく》千金の金もうけができるにもかかわらず、いやしくもその品物が天下の人々のためにならぬ性質のものたる以上、世の実業家は捨ててこれを顧みぬという事であれば、私の言うがごとき現代経済組織の弊所もこれがため匡正《きょうせい》せらるること少なからざるべしと思う。それゆえ私は論を移して、消費者責任論より生産者責任論に進むのである。
 私は今具体的に商品や商売の名を指摘して、多少にても他人の営業の邪魔をする危険を避けるつもりであるが、ただ一つ、今年の夏四国に遊んだおり、友人から聞いた次の話だけ、わずかにここに挿入《そうにゅう》することを許されたいものだと思う。
 このごろ婦女子の間に化粧品の需要せらるることはたいしたもので、これを数十年前に比ぶれば実に今昔の感に堪えざる次第であるが、ある日のこと、自分は所用あって田舎町《いなかまち》の雑貨店に立ち寄っていると、一人の百姓娘が美顔用の化粧品を買いに来た。見ていると、小僧はだんだんに高い品物を持ち出して来て、なかんずく値の最も高いのを指さしながら、これは舶来品だから無論いちばんよくききますなどとしゃべっていたが、その田舎娘はとうとういちばん高い化粧品を買って帰った。いわゆる夏日は流汗し冬日は亀手《きしゅ》する底《てい》の百姓の娘が美顔料など買って行く愚かさもさることながら、私はかかる貧乏人の無知なる女を相手に高価なぜいたく品を売り付けて金もうけすることも、ずいぶん罪の深い仕事だと感じた。
 友人の話というはただこれだけの事である。そうして私はこれ以上具体的の話をするつもりはないが、ただひそかに考うるに、いかに営業の自由を原則とする今の世の中とはいえ、農工商いずれの産業に従事するものたるを問わず、すべて生産者にはおのずから一定の責任があるべきはずだと思う。
 私は金もうけのために事業を経営するのを決して悪い事だと言うのではない。多くの事業はいかなる人がいかなる主義で経営しても、少なくとも収支の計算を保って行く必要がある。損をしながら事業を継続するという事は、永続するものではない。それゆえ私は決して金もうけが悪いとは言わぬ。ただ金もうけにさえなればなんでもするという事は、実業家たる責任を解せざるものだ、と批評するだけの事である。少なくとも自分が金もうけのためにしている仕事は、真実世間の人
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