カ活、知能的生活及び道徳的生活の向上発展を計るがための生活がすなわちそれである。さらにこれをば教育勅語中にあることばを拝借して申さば、われわれがこの肉体の健康を維持し、「知能《ちのう》を啓発し、徳器を成就し」、進んでは「公益を弘《ひろ》め、世務を開く」ための生活、それがすなわちわれわれの理想的生活というものである。否、私は誤解を避くるためにかりに問題を分析して肉体と知能と霊魂とを列挙したけれども、本来より言わば、肉は霊のために存し、知もまたひっきょうは徳のために存するに過ぎざるがゆえに、人間生活上におけるいっさいの経営は、窮極その道徳的生活の向上をおいて他に目的はない。すなわちこれを儒教的に言わば、われわれがその本具の明徳を明らかにして民を親しみ至善にとどまるということ、これを禅宗的に言わば見性成仏《けんしょうじょうぶつ》ということ、これを真宗的に言わば、おのれを仏に任せ切るということ、これをキリスト教的に言わば、神とともに生くということ、これをおいて他に人生の目的はあるまい。しかしてこの目的に向かって努力精進するの生活、それがすなわちわれわれの理想的生活であって、またその目的のために役立ついっさいの消費はすなわち必要費であり、その目的のために直接にもまた間接にもなんら役立たざる消費はことごとくぜいたくである。
 私のいうところの必要及びぜいたくはかくのごとき意味のものであって、毫《ごう》も個人の財産または所得のいかんを顧みざるものである。思うに今の世の中には、かくのごとき意味の必要費を支弁するに足るだけの財産なり所得なりのないものはたくさんにある。たとえば非常な俊才で今少し学問させたならば、他日立派に国家有用の材となりうるという青年でも、もし不幸にして貧乏人の子に生まれて来たならば、到底充分に学問するだけの資力はあるまい。それをしいて学問するというのは従来の考えからいうと、それは過分のぜいたくだというのである。しかし私はそれを必要だと見るものである。その代わり百万長者が一夜の歓楽に千金を投ずるがごときは、たといその人の経済からいえば、蚤《のみ》が刺したくらいのことで、ほんのはした金《がね》を使ったというだけのことであっても、もしかくのごとくにして一夜の歓楽をむさぼるということが、ただにその人の健康に益なきのみならず、かえってその人の徳性を害するというだけの事であれば、私はそれを真にぜいたくだというのである。[#地から1字上げ](十二月十八日)

       十二の四

 私がぜいたくを排斥するのは以上のごとき趣意である。もしこれを誤解していっさい物質的生活の向上を否認するものとせらるるならば、著者のはなはだ迷惑するところである。たとえば食物にしても、壮年の労働者には一日約三千五百カロリーの営養価を有する食物を摂取することがその健康を維持するために必要だとするならば、そうして日本の労働者は現にそれだけの食物を摂取しておらぬとするならば、私は彼らの食物につきすみやかにその品質を改良しその分量を増加せんことを希望する者である。きのうまでまずい物を少しばかり食べていたものが、きょうからにわかにうまい物を腹一杯に食べることにしたからとて、もしその事が彼らの健康を維持し増進するに必要であれば、私は決してこれをぜいたくだといわぬのである。ただ古人も一日|為《な》さざれば一日食わずと言ったように、無益に天下の食物を消費することを名づけてぜいたくといい、いっさいを排斥せんとするのである。
 私はこの趣意に従うて、たとえば自動車に乗るがごときことをも、これをぜいたくとして一概に排斥せんとするものではない。その人の職業ないし事業の性質によっては、終日東西に奔走するの必要あるものがあろう。その場合にもし自動車の利用が、その人の時間を節約し、天下のためにより多くの仕事をなしうるゆえんとなるのであれば、自動車に乗るもまた必要であってぜいたくではない。ただ私はなんらなすなき遊冶《ゆうや》郎輩《ろうはい》が、惜しくもない時間をつぶすがために、妓《ぎ》を擁して自動車を走らせ、みだりに散歩の詩人を驚かすがごときをもって、真に無用のぜいたくとなすのである。
 またたとえば学校の講堂にしても、もし教育の効果をあぐるがために真に必要だというならば、ただ雨露をしのぐに足るばかりでなく、相応に広大な建物を造っていっこうさしつかえない事だと思う。簡易生活を尊べる禅僧輩が往々にして広壮なる仏殿を経営するがごときも、同じようなる趣旨にいずるものとせば、あえてとがむるに足らぬ事である。
 元来われわれは全力をあげて世のために働くを理想とすべきである。さればこの五尺のからだにしても、実は自分の私有物ではない、天下の公器である。なるべくこれをたいせつにして長く役に立つようにするという事は、それはわれわれの義務である。だから遊ぶのも御奉公の一つで、時によってはこのからだにも楽をさせぜいたくをさせてやらねばならぬ。しかしそれは私のいわゆるぜいたくなるものではない、必要である。遊ぶのではなくてお勤めをしているのである。
 私のいうぜいたくと必要との区別はほぼ以上のごときものである。してみると、貧乏人は初めからさしてぜいたくをする余裕をもたぬ者である。それゆえ私は、倹約論は貧乏人に向かって説くべきものではなく――少なくとも貧乏人に向かってのみ[#「のみ」に傍点]説くべきものではなくて、主として金持ちに向かって説くべきものだと信じている。貧乏人はそれでなくとも生活の必要品が不足して、肉体や精神の健康を害しているのに、そのうえへたに倹約を勧めると、全くしかたのないものになる。されば私がぜいたくをもって貧乏の原因であると言うのも、ぜいたくをする者はやがて貧乏になるぞという意味ではなくて、富裕な人々がぜいたくをしているということが他の多数の人々をしてその貧乏なる状態を脱することあたわざらしむる原因であるという意味である。この点から言っても、私の勤倹論は従来の勤倹論とその見地を異にしている。従来の勤倹論は自分が貧乏にならぬために勤倹しろと言うのであって、その動機は利己的であるが、私の勤倹論は他人の害になるからぜいたくをするなというのであって、その動機は利他的である。
 蓮如上人《れんにょしょうにん》御一代《ごいちだい》聞書《ききがき》にいう「御膳《おぜん》を御覧じても人の食わぬ飯を食うよとおぼしめされ候《そうろう》と仰せられ候」と。思うにこの一句、これを各戸の食堂の壁に題することを得ば、恐らく天下無用の費《つい》えを節する少なからざるべし。[#地から1字上げ](十二月十九日)

       十二の五

 私の倹約論は主として金持ちに聞いてもらいたいのだと言ったが、しかし私のいう意味のぜいたくは、多少の差こそあれ、金持ちも貧乏人も皆それ相応にしていることである。
 徳川光圀《とくがわみつくに》卿《きょう》が常に紙を惜しみたまい、外より来る書柬《しょかん》の裏紙長短のかまいなくつがせられ、詩歌の稿には反古《ほご》の裏を用いたまいたる事はよく人の知るところである。現に水戸の彰考館《しょうこうかん》に蔵する大日本史の草稿はやはり反古《ほご》を用いある由、かつて実見せし友人の親しく余に物語りしことである。
 また蓮如上人御一代聞書を見ると、「蓮如上人御廊下を御通り候うて、紙切れの落ちて候いつるを御覧ぜられ、仏法領《ぶっぽうりょう》の物をあだにするかやと仰せられ、両の御手にて御いただき候としかじか、総じて紙の切れなんどのようなる物をも、仏物《ぶつもつ》とおぼしめし御用い候えばあだに御沙汰《ごさた》なく候うの由、前々住上人御物語候いき」という記事がある。紙切れ一片でもむだには使わぬという立場から見れば、平生貧乏をかこちつつあるわれわれも相応にぜいたくをしていると言わなければならぬ。
 峨山《がざん》禅師言行録にいう「侍者師の室前なる水盤の水を替えけるに、師はそのそばにありて打ち見やりたまいしが、おもむろに口を開き、なんじも侍者となりて半年もたつから、もう気がつくだろうと思っていたが、言っておかぬと生涯知らずに過ごす。物はなァ、大は大、小は小と、それぞれ生かして使わねばならぬ。水を替える時は元の水をそこらの庭木にかけてやるのさ。それで木も喜ぶ、水も生きたというものだ。因地の修行をするものは、ここらが用心すべきところだ。また洗面の水なども、ざっと捨てずに使うたあまりは竹縁に流して洗うのだ……。うむ水一滴もそれで死にはせぬ、皆生きて働いたというものだ。陰徳陰徳と古人がたがやかましく言うのもほかではないぞ」。水一滴もむだにしてはならぬという這般《しゃはん》の消息になると、もはや経済論の外に出た話で、本来はこの物語の中に採録すべき記事ではないのであるが、私は事のついでに峨山《がざん》和尚《おしょう》のお師匠に当たる滴水和尚の逸話をもここに簡単にしるしておこうと思う。
 滴水和尚かつて曹源寺《そうげんじ》の儀山《ぎざん》禅師に師事されいたるころのことである。ある日禅師|風呂《ふろ》にはいられると、熱すぎるので、滴水和尚を呼んで水を運ぶことを命ぜられた。そこで和尚は何心なくそこにあった手おけを取って、その底にわずかに残っていた一すくいの水を投げ捨てて立ち去ろうとせらるると、浴槽《よくそう》に浸りおられたる儀山禅師、その刹那《せつな》に大喝《だいかつ》一声、ばかッとどなられた。和尚この一喝の下に始めて大いに感悟するところあり、すなわち改めて滴水と号し、爾来《じらい》斯道《しどう》に刻意すること久しく、いよいよますます一滴水の深味を体得す。和尚後年、生死《しょうじ》代謝《たいしゃ》の際に臨みて一偈《いちげ》を賦するに当たり、偈中に「曹源《そうげんの》一|滴水《てきすい》、一生用不尽《いっしょうもちうれどもつきず》」の一句をのこされたのもこれがためであるという。
 話が自然に横道にそれたきらいがあるが、しかし私がここにこれらの話を引き合いに出してきたのはほかでもない、裏棚《うらだな》に住まう労働者でも水道の水などはずいぶんむだに浪費しうるのであるが、それもやはり一種のぜいたくだということを、読者に考えていただきたいためのみである。私は今一々その場合を例示せぬけれども、おそらく多数の読者は、「私のいう意味のぜいたくは、多少の差こそあれ、金持ちも貧乏人も皆それ相応にしていることである」という私の先の断案をば、否認せらるる事はあるまいと思う。[#地から1字上げ](十二月二十日)

       十二の六

 私は議論を公平にするために、もし話を厳密にすれば、貧乏人といえどもむだに物を費やしている場合はあるという事を述べた。しかしどうせ余裕のない彼らの事であるから、むだをしたとて貧乏人のは知れたものである。そこで私は再び金持ちの方に向いて、――あまりくどいので読んでくださるかたもあるまいが――今少し倹約の話を続ける。
 昔孔子は富と貴《たっとき》とは人の欲するところなりと言われたが、黄金万能の今日の時勢では、富者すなわち貴人である。されば人の欲するところのもの試みに二個条をあげよと求めらるるならば、今の世の中では、むしろ富に加うるに健康をもってするが適当である。英米両国にては富のことを Wealth と言い、健康のことを Health と言うが、げにこのWとHのついた二個の ealth こそ万人の欲望の集中点で、だれも彼も金持ちになって長生きをしたいと思い煩っているのである。そこで普通の人は、身代は太るほどよく、身体も肥《ふと》るほどよいように思っているけれども、しかしそは大きな間違いで、財産でもからだでもあまり太り過ぎてはどうせろくな事はないのである。
 貧乏な上に恐ろしくやせている私がこんな事をいうと、それこそほんとうのやせがまんというものだと笑わるるかたもあろうが、もしそう言わるるならば、しかたがないからめんどうでも統計表を掲げて、私の議論の証拠にする。まず次に掲ぐるところのものは、四十三の米国生命保険会社が一八
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