フ若《ごと》きは則《すなわ》ち」と付け加えており、なおその前に「恒産なくして恒心ある者は惟《ただ》士のみ能《よ》くするを為《な》す」と言っておる。しかして世の教育に従事する者の任務とするところは、社会の事情、周囲の風潮はいかようであっても、それに打ち勝ちそれを超越して、孟子のいわゆる「恒産なくして恒心ある」ところの「士」なるものを造り出すにある。
実はそういう人間が出て社会を指導して行かねば、社会の制度組織も容易に変わらず、またいかに社会の制度や組織が変わったとて、到底理想の社会を実現することはできぬと同時に、そういう人間さえ輩出するならば、たとい社会の制度組織は今日のままであろうとも、確かに立派な社会を実現することができて、貧乏根絶というがごとき問題も直ちに解決されてしまうのである。この意味において、社会いっさいの問題は皆人の問題である。
さて論じきたってついに問題を人に帰するに至らば、私の議論はすでに社会問題解決の第三策を終えて、まさに第一策に入ったわけである。[#地から1字上げ](十二月十二日)
十二の一
[#ここから2字下げ]
「さんらんの翡翠《ひすい》の玉の上におく
つゆりょうらんの秋はきにけり
「秋ふかみこごしく雨の注げばか
こころさぶしえとどまりしらず
[#ここで字下げ終わり]
きょう友人がくれた手紙の端にはかような歌がしるしてあった。げに心に思うことども次々に語りゆくうちに、いつしか秋もいよいよ深うなった。この物語を始めたおりは、まだ夏の盛りを過ぎたばかりで、時には氷を呼んだこともあったが、今ははや炉に親しむの季節となった。元来が分に過ぎた仕事であったために、やせ馬が重荷を負うて山坂を上るよう、休み休みしてようやくここまでたどって来たが、もうこれで峠も越した。これよりはいっそ[#「いっそ」に傍点]のこと近道をして早くふもとにおりようと思う。
私は、前回において、私の議論はすでに社会問題解決の第三策を終えて、まさに第一策に入ったと言った。論思いのほか長きに失し、読者もまたすでに倦《う》まれたるべしと信ずるがゆえに、余のいわゆる第二策は、論ぜずしてこれをおくつもりなのである。――第二策とは「貧富の懸隔のはなはだしきを匡正《きょうせい》し、社会一般人の所得をして著しき等差なからしむること」で、いわゆる社会政策なるものの大半はこれに属する。もとより穏健無難の方策であるが、しかもこれを徹底せしむるならば、多くは第三策に帰入するに至るもので、かのロイド・ジョージ氏の社会政策がしばしば社会主義なりと非難されたるも、社会政策の実施は多くは社会主義の一部的または漸進的実現と見なし得らるるがためである。
× × ×
社会組織の改造よりも人心の改造がいっそう根本的の仕事であるとは、私のすでに幾度か述べたところである。思うにわれわれの今問題にしている貧乏の根絶というがごときことも、もし社会のすべての人々がその心がけを一変しうるならば、社会組織は全然今日のままにしておいても、問題はすぐにも解決されてしまうのである。
その心がけとは、口で言えばきわめて簡単なことで、すなわちまずこれを消費者について言えば、各個人が無用のぜいたくをやめるという事ただそれだけの事である。私が先に、富者の奢侈《しゃし》廃止をもって貧乏退治の第一策としたのは、これがためである。
思うにこのぜいたくということについては、今日一般に非常な誤解が行なわれているようである。たとえば巨万の富を擁する富豪翁が、自分の娘のために千金を投じて帯を買うというがごときは、無論|当然《とうぜん》のことと考えられているのであって、その事のために自分らは飢えている貧乏人の子供の口からその食物を奪っているなどいうことは、彼らの全く夢想だもせぬところであろう。おそらく彼らも普通人と等しく、また普通人以上に人情にあつい善人であろう。そうして自分の娘の衣装のために千金を費やすというがごときは、自分の身分に応じ無論当然のことで、自分らがそういう事に金を使えばこそ始めて世間の商人や職人に仕事もありもうけもあって、彼らはそのおかげでようやくその生計をささえつつある、というくらいに考えているのが普通であろう。しかしながらこれは全く誤解であるのである。そうしてこの誤解のためにどれだけ世間の貧乏人が迷惑しているかわからぬのである。
なぜというに、今日一方にはいろいろなぜいたく品が盛んに作り出されているに、他方には生活必要品の生産高がはなはだしく不足していて、それがために多数の人間は肉体の健康を維持して行くだけの物さえ手に入れ難いということになっているのは、すでに中編にて述べたるごとく、ひっきょう余裕のある人々がいろいろな奢侈《しゃし》ぜいたく品を需要しているからである。もしさし当たって事の表面を見るならば、商人がいろいろな奢侈ぜいたく品を作り出してこれを販売すればこそ買う人もあるというように考えられるけれども、それは本末転倒の見方なので、実は、そういう奢侈ぜいたく品をこしらえて売り出す人があるから買う人があるのではなく、そういう物をこしらえて売り出すと買う人があるから、それで商売人の方ではそういう品物を引き続きこしらえて売り出すのである。もちろん売ると買うとこの両者の間には互いに因果関係があるのであるから、生産者の責任のこともいずれのちに説くつもりであるが、しかしいずれが根本的かといえば、生産が元ではなくてむしろ需要が元である。もしだれも買い手がなかったならば、商人は売れもせぬ物を引き続きこしらえていたずらに損をするものではない。いくらでも売れるから、次第に勢いに乗じて、さまざまの奢侈ぜいたく品を作り出すのである。そこで田舎《いなか》にいて米を作るべき人も、都会に出て錦《にしき》を織るの人となる。農事の改良に費やさるべき資金も、地方を見捨てて都会にいで、待合の建築費などになる。かくて労力も資本も、その大半は奢侈ぜいたく品の製造のために奪い取られて、生活必要品の生産は不足することになるのである。[#地から1字上げ](十二月十三日)
十二の二
考えてみると、今日起こさなければならぬ仕事で、ただ資金がないために放棄されている仕事はたくさんにある。手近な例を取って言えば、農事の改良のためにも企つべき仕事はたくさんあるであろう。しかし資本がない、借ろうと思えば利子が高くてとても引き合わぬ。そういうことのためにいろいろな有益な事業が放棄されたままになっている。しかしながら、今日余裕のある人々が、奢侈《しゃし》ぜいたくのために投じている金額はたいしたものである。そうしてかりにそれらの人々が、もしいっさいの奢侈ぜいたくを廃止したとするならば、これまでそういう事に浪費されていた金は皆浮いて出て、それがことごとく資本になるのである。それからまた、そういう奢侈ぜいたく品を製造する事業のために吸収されていた資本も、皆浮いて来るのである。そうなって来れば、いくら資本の欠乏を訴えている日本でも、優に諸般の事業を経営するに足るだけの資本が出て来るはずである。私は、日本の経済を盛んにするの根本策は、機械の応用を普及するにありという事を、年来の持論にしているが、実はその機械の応用には資金がいるのである。機械の応用の有益にして必要なることはだれも認めるけれどもこれを利用するだけの資本に乏しいのである。しかし以上述べきたりたるがごとく、皆が奢侈ぜいたくをやめれば、その入用な資本もすぐに出て来るのである。今日では資金の欠乏のために農事の改良も充分に行なわれぬというけれども、すでに資本が豊富になれば、その農事の改良なども着々行なわれることになるであろう。そうすれば米もたくさんできるであろう。米もたくさんできればおのずから米価も下落するが、しかしそれと同時に他の生活必要品もすべて下落するのであるから、米を買うている人々が仕合わすと同時に、米を売る農家の方もさらにさしつかえないわけである。米価の調節などといって、しいて米の値を釣り上げるために無理なくふうをする必要もなくなるのである。
今日ドイツが八方に敵を受けて年を経て容易に屈せざるは何がためであるか。開戦当時においては、ドイツは半年もたたぬうちに飢えてしまうだろうと思われた。しかも今に至ってなお容易に屈せざるは、すでに述べたるがごとく、驚くべき組織の力により、開戦以来、上下こぞっていっさいの奢侈ぜいたくを中止したからである。たとえばこれを食物についていえば、今日ドイツでは、パンや肉の切符というものがあって、上は皇室宮家を始めとし、各戸とも口数に応じて生活に必要なだけの切符を配布されることになっている。万事こういう調子で、すべて消費の方面はこれを必要の程度にとどめると同時に、働く方面はすべての人がおのおのその能をつくすということになっている。だから容易に屈しない。過去数年の間、世界一の富国たるイギリスが、今では参百億円以上に達する大金を費やして攻め掛けているけれども、とにかく今日まではよくこれに対抗し得たのである。これをもって見ても、皆が平生の奢侈ぜいたくをすべて廃止したならば、いかにそこに多くの余裕を生じ、いかに大きな仕事を成し得らるるかがわかる。私は日本のごとき立ち遅れた国は、ドイツが戦時になってやっていることを、平生から一生懸命になってやって行かねば、到底国は保てぬと憂いているものである。
奢侈ぜいたくをおさゆることは政治上制度の力でもある程度まではできる。しかし国民全体がその気持ちにならぬ以上、外部からの強制にはおのずから一定の限度があるということは、徳川時代の禁奢令《きんしゃれい》の効果を顧みてもわかることである。それゆえ私は制度の力に訴うるよりも、まずこれを個人の自制にまたんとするものである。縷々《るる》数十回、今に至るまでこの物語を続けて来たのも、実は世の富豪に訴えて、いくぶんなりともその自制を請わんと欲せしことが、著者の最初からの目的の一である。貧乏物語は貧乏人に読んでもらうよりも、実は金持ちに読んでもらいたいのであった。[#地から1字上げ](十二月十四日)
十二の三
さてここまで論じてきたならば、私はぜいたくと必要との区別につき誤解なきようにしておかねばならぬが、元来今日まで行なわれて来た奢侈《しゃし》またはぜいたくという観念には、私の賛成しかねるところがある。けだし従来の見解によれば、ぜいたくとしからざるものとの区別は、もっぱら各個人の所得の大小を標準としたものである。たとえば巨万の富を擁する者が一夕の宴会に数百円を投ずるがごときは、その人の財産、その人の地位から考えて相当のことであるから、その人たちにとっては決してぜいたくとは言われないが、しかし百姓が米の飯を食ったり肴《さかな》を食ったりするのは、その収入に比較して過分の出費であるから、その人たちにとってはたしかにぜいたくである、こういうふうに説明して来たのである。しかし私がここに必要といいぜいたくというは、かくのごとく個人の所得または財産を標準としたものではない。私はただその事が、人間としての理想的生活を営むがため必要なるや否やによって、これを区別せんとするものである。
ただし何をもって人間としての理想的生活となすやについては、人の見るところ必ずしも同じくはあるまい。しかして今私は、自分の本職とする経済学の範囲外に横たわるこの問題につき、自分の一家見を主張してこれを読者にしうるつもりでは毛頭ないけれども、ただ議論を進むる便宜のためにしばらく卑懐を伸ぶることを許さるるならば、私はすなわち言う。人間としての理想的生活とは、これを分析して言わばわれわれが自分の肉体的生活、知能的生活《メンタルライフ》及び道徳的生活《モーラルライフ》の向上発展を計り――換言すれば、われわれ自身がその肉体、その知能《マインド》及びその霊魂《スピリット》の健康を維持しその発育を助長し――進んでは自分以外の他の人々の肉体的
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