Bリアム・レーンなるものの広く世間の注意をひくに至った最初であるが、そのレーンなるものはその後進んで南米の一角にその理想とせる社会主義国を実現せんと企てしことによりて、さらに有名になった人である。
 試みに一八九〇年彼がその計画を実行せんとするに当たり公にせし宣言書を見るに、その要旨は次のごとくである。
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「働くためにある者は他人に雇われなければならぬというしくみが維持せらるる限り、またわれわれが、生活の不安のために誘発せらるる利己心の妨げによりて、われわれの生活を相互に保証するのしくみを採るはすべての人にとって最善の方法たることを理解するに至り得ざる限り、真の自由と幸福は到底望まるべくもない。(中略)それゆえ今日の急務は、すべての者が共同の利益のために働くという一の社会を創設し、これによりて、ある人が他人を虐待することの絶対に不可能なる条件の下においては、そうしてまた、全体の者の福祉を図ることが各個人の第一の義務であり、また各個人の福祉を図ることが全体の者の唯一の義務であるという主義の下においては、すべての男女が、だれの身にとっても自分自身または自分の子孫があすにも餓死せぬとも限らぬという今日のごとき社会において到底味わうことのできぬ愉快、幸福、知恵及び秩序の中に、生活しうるという実際の証明を与うることである。」
[#ここで字下げ終わり]
 レーン氏はかくのごとき宣言を公にしたる後、南船北馬、東奔|西馳《せいち》、熱心にその計画の有益かつ必要なることを伝道したるところ、志を同じゅうする者少なからざるの勢いなりしをもって、すなわち人を欧米に派遣して理想国建設の地を卜せしめ、ついに南米のパラグェーをもってその地と定めその理想郷は名づけてこれを『新豪州』といいかつ加盟の条件を左のごとく定めた。
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「この組合に加入せんとする者は、目的地に向かって出発する時最後に所有しいたる全財産をこの組合に提供すべし。ただしその出資は六百円以上なることを要す。この出資は後日組合を脱退せんとする者あるも、全くこれを返戻《へんれい》せず。また五十歳以上の者は、その出資額千円以上に達するにあらざれば、その加盟を許さずうんぬん。」
[#ここで字下げ終わり]
 さて規約を右のごとく定めてこれを世間に公にしてみると、加盟者ははたして続々と現われて来て、中には巨額の資金の提供を申しいでた者もあった。そこでレーンも大いにこれに感激し、「同志の人々が、その多年の辛苦によりようやくもうけ得た金をば、かくのごとくなんらの不安なく疑惑なく自分に委託して来るのを見ると、私は涙を流さずにはいられない。これほどの信頼にそむくほどなら、私はむしろ死ぬるであろう」と言って、自分も約壱万円の財産を出資し、全力をささげてその事業に従事することを誓った。[#地から1字上げ](十二月七日)

       十の五

 レーン氏の企てた理想国の建設は、前回に述べたるがごとき経過をもって着々進行し、ついに壱万弐千円を投じて六百トンの汽船「ローヤル・ター」を買い入れ、まず第一回の移民として二百五十名の男女がレーンとともにこれに搭乗《とうじょう》して南米に出発することになった。
 さてその出発の光景、航海中の出来事、ないし目的地到着後の事業の経過等については、学問上興味ある事実も少なくないが、私は今一々それをお話ししておる余暇をもたぬ。ただ私がここにこの話を持ち出したのは、最初天下に実物教育を施すというほどの意気込みをもって始められたこの事業も、ついには失敗に帰したという事実を報道することによりて、組織の必ずしも万能にあらざることを説かんがためである。
 私はレーンらの計画した理想国の組織が全然遺憾なきものであったとは決して考えぬ。しかし彼らは現時の経済組織を否認し、かかる組織の下においては到底理想的社会の実現を期すべからずと信ぜしがために、相率いてその母国を見捨て、人煙まれなる南米の一角にその理想郷を建設せんと企てたのであるから、その新社会の組織は、少なくとも彼らの見てもって現時の個人主義的組織の最大欠点となせし点を排除せしものたるや疑いない。しかもそのついに失敗に終わりしところを見れば、組織そのものの必ずしも根本的条件にあらざることを知るに足るかと思う。
 ドイツもイギリスもフランスも一国の運命を賭《と》すべき危機に遭遇したればこそ、経済組織の改造も着々行なわれ、しかしてまたその新組織はただこれが長所のみを発揮していまだその短所をあらわすに至らぬけれども、戦争が済んで国民の気分がゆるんで来たならば、金のある者はぜいたくもしたくなるだろうし、一生懸命に国家のために働くという事もばからしくなって、あるいは多少くずれて来るかもしれぬのである。
 レーン氏の「いわゆる全体の者の福祉を図ることが各個人の第一の義務であり、また各個人の福祉を図ることが全体の者の唯一の義務である」という主義をば、確《かた》く信じて疑わず、身を処すること一にこの主義のごとくなるを得《う》る人々にとっては,かくのごとき主義をもって計画された社会制度が最上の組織でありうるけれども、利己主義者を組織するに利他主義の社会組織をもってするは、石を包むに薄帛《うすぎぬ》をもってするがごときもので、遠からずして組織そのものが破れて来る。されば戦後の欧州がはたして戦時の組織をそのままに維持しうるや否やは、もちろん一の疑問たるを免れぬ。
 しかしながら、人間はよく境遇を造ると同時に、境遇がまた人間を造る。英独仏等交戦諸国の国民は、国運を賭《と》するの境遇に出会いしがゆえに、たちまち平生の心理を改め、よく献身犠牲の精神を発揮するを得た。それゆえ、平生ならば議会も輿論《よろん》も大反対をなすべき経済組織の大変革が、今日はわけもなく着々と実現されて来た。これは境遇によって一変した人間が、さらにその境遇を一変せしめたのである。しかるに境遇はまた人間を支配するがゆえに、もしこの上戦争が長びき、人々が次第に新たなる経済組織に慣らされて来ると、あるいは戦後にも戦時中の組織がそのまま維持せられるかもしれない。否戦後もしばらくの間は、諸国民とも戦時と同じ程度の臥薪嘗胆《がしんしょうたん》を必要とするであろうから、戦時中の組織はおそらく戦争の終結とともに直ちに全くくずれてしまって、すべてがことごとく元のとおりになるという事はあるまい。少なくとも私はそう考える。それゆえ、私はプレンゲ氏とともに一九一四年はおそらく経済史上において将来一大時期を画する年となるであろうと思う。[#地から1字上げ](十二月八日)

       十一の一

 これを要するに、人と境遇との間には因果の相互的関係がある。すなわち人は境遇を造り、境遇もまた人を造る。しかしながらそのいずれが本《もと》なりやと言えば、境遇は末で人が本である。それゆえ、社会問題の解決についても、私は経済組織の改造という事をば、事の本質上より言えば、根本策中の根本策とはいい得られぬものだというのである。
 しかし私はそう言ったからとて社会の制度組織が個人の精神思想の上に及ぼす影響を無視せんとする者ではない。否むしろ私は人並み一倍、経済の人心に及ぼす影響の甚大《じんだい》なるものなることを認めつつある者の一人で、その点においては私は十九世紀の最大思想家の一人たるカール・マルクスに負うところが少なくない。
 今私はここにマルクスの伝記をくわしくお話しする余裕ももたなければ、またその必要も感じない。しかしいつ読んでもおもしろいのは豪傑の伝記である。すなわちもし諸君が許さるるならば、私はマルクス伝の一|鱗《りん》を示すがために、ここにマルクスの細君の手紙の一節を抄訳しようと思う。
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「……嬰児《みずご》のために乳母《うば》を雇うというがごときはもちろんできがたきことにて候《そうろう》ゆえ、わたしは胸や背《せな》の絶えず恐るべき痛みを感ずるにかかわらず、自身の乳にて子供を育てることに決心いたし候。しかるに哀れむべき小さなる天使は、不良の乳を飲み過ぎ候いしために、生まれ落ちたる日より病気にかかり、夜も昼も苦しみおり候。彼はかつて一夜たりとも二三時間以上眠りたることこれなく候。……かかるところへ、ある日のこと、突然家主参り……屋賃の滞り五ポンドを請求いたし候いしも、われらはもとよりこれを支払うの力これなく候いしかば、直ちに二人《ふたり》の執達吏入りきたり、わずかばかりの所有品は、ベッドも、シャツも、着物もすべて差し押え、なお嬰児《みずご》の揺床《ゆりどこ》も、泣き悲しみつつそばに立ちいたる二人の娘のおもちゃも、すべて差し押えたることに御座候《ござそうろう》。」
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 これはマルクスの細君が一八四九年にある人に与えた手紙の一節であるが、ここにマルクスの細君というは、マルクスの父の親友なるルードウィヒ・フォン・ウェストファーレンという人の娘である。当時その人がプロシャの官吏としてザルツウェーデルという所からマルクスの郷里のトリエルに転じて来たのは、今からちょうど百年前の一八一六年のことであるが、その時に連れていた二歳になる女の子は、後にマルクスの細君となった人で、すなわち先に掲げた手紙の主である。この手紙の主は幼にして容色人にすぐれ、かつ富裕なる名家に人となりしがために、名門の子弟の婚を求むる者も少なくなかったのであるが、たまたまマルクスのせつなる望みにより、四歳年下のこの貧乏人の子にとつぎ、かくてこの女は、かの恐るべき社会主義者として早くより自分の祖国を追い出され、またフランスからもベルギーからも追放されて、ついには英京ロンドンに客死するに至りしところの、世界の浪人にしてかつ世界の学者たるカール・マルクスにその一生をささげ、つぶさに辛酸をなめ尽くしつつ、終始最も善良なる妻として、その遠き祖先の骨を埋めつつある英国に流れ渡り、ついに自身もロンドンの客舎に病死するに至りし人である。前に掲げた手紙もすなわちこのロンドン客寓中《かくぐうちゅう》にしたためたものである。[#地から1字上げ](十二月九日)

       十一の二

 さて私がここにマルクスを持ち出したのは、彼が有名なる唯物史観または経済的社会観という一学説の創設者であるからである。
 彼が一八五九年に公にしたる『経済学批判*』の巻頭には同年二月の日付ある彼の序文があるが、その一節には次のごとく述べてある。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
* Karl Marx, Zur Kritik der politischen Oekonomie.
[#ここで字下げ終わり]
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「余はギゾーのためフランスより追われたるにより、パリーにて始めたる経済上の研究はこれをブリュッセルにおいて継続した。しかして研究の結果、余の到達したる一般的結論にして、すでにこれを得たる後は、常に余が研究の指南車となりしところのものを簡単に言い表わさば次のごとくである。」
「人類はその生活資料の社会的生産のために、一定の、必然的の、彼らの意志より独立したる関係、すなわち彼らの物質的生産力の一定の発展の階段に適応するところの生産関係に入り込むものである。これら生産関係の総和は社会の経済的構造を成すものなるが、これすなわち社会の真実の基礎にして、その基礎の上に法律上及び政治上の上建築が建立され、また社会意識の形態もこれに適応するものである。すなわち物質的生活上の生産方法なるものは、社会的、政治的及び精神的の生活経過をばすべて決定するものである。」
[#ここで字下げ終わり]
 右はマルクスの※[#「敖/耳」、第4水準2−85−13]牙《ごうが》な文章を――しかもわずかにその一節を――直訳したのであるから、これを一読しただけでは充分に彼の意見を了解することは困難であるが、今これを詳しく解説しているいとまはない。それゆえ、しばらくその原文を離れて、簡単に彼の意見の要領を述ぶるならば、これを
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