しくも現時の経済組織の下において、多少にても国家の保護干渉を是認し、利己心の自由なる発動になんらかの制御を加えんとするかの国家主義、社会政策のごときは、これを正統学派より見れば、すなわちいずれも皆異端である。
 個人主義者はすなわち説いていう。「試みにヨーロッパの世界的都市にきたりて見よ。そこには幾百万の人々が毎朝種々雑多の欲望をもって目ざめる。しかるに大部分の人々はなお深き眠りをむさぼりつつある時、はや郊外からは新鮮なる野菜を載せた重い車をひいて都門に入りきたる者があるかと思えば、他方には肥えたる牛を屠場《とじょう》に引き入れつつある者がある。パン屋ははや竈《かまど》をまっかにして忙しそうに立ち働いているし、乳屋は車を駆《や》って戸々に牛乳を配達しつつある。かしこには馬車屋が見も知らぬ客を乗せて疾走しているかと見れば、ここには来るか来ぬか確かでもない顧客を当てにして、各種の商店が次第次第に店を開き始める。かくて市街はようやく眠りよりさめ、ここにその日の雑踏が始まる。今この驚くべき経営により、幾百万の人々が、日々間違いなく、パンや肉類や牛乳や野菜やビールやぶどう酒の供給を受けて、無事にその生活を維持し行くを得《う》るは、そもそも何によるかと考えみよ。ひっきょうは皆利己心のたまものではないか。いかに偉い経営者が出て、あらかじめ計画を立てたとて、数百万の人々の種々雑多の欲望をば、かくのごとく規則正しく満たして行くということは、到底企て及ぶべからざる事である。」(ランゲ氏『唯物主義史論』中の一節を借る*)。個人主義者はかくのごとく観ずることによりて現代の経済組織を謳歌《おうか》するのであるが、げに今の世の中は、金ある者にとりてはまことに重宝しごくの世の中である。[#地から1字上げ](十一月十五日)
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* Lange, Geschichte des Materialismus. Bd. II. S. 475.
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       九の二

 げに今の世のしくみは、金ある者にとっては、まことに便利しごくである。現に私のごとき者も、多少ずつの月給をもらっているおかげで、どれだけ世間のお世話になって便利を感じておるかわからぬ。まず手近な食物について考えてみても、何一つ私は自分に手を下して作り出した物はない。私は春が来ても種子《たね》をまく心配もせず、二百十日が近づいても別に晴雨を気にするほどの苦労もしておらぬのに、間違いなく日々米の御飯を食べることができる。その米は、私の何も知らぬうちに、日本のどこかでだれかが少なからぬ苦労を掛けて作り出したものである。それをまただれかがさまざまのめんどうを見て、山を越え海を越え、わざわざ京都に運んで来てくれたものである。また米屋という者があって、それらの米を引き取って精白し、頼みもせぬに毎日用聞きに来てくれるし、電話でもかければ雨降りの日でもすぐ配達してくれる。かくのごとくにして、私はまた釣りもせずに魚を食い、乳もしぼらずにバタをなめ、食後には遠く南国よりもたらせし熱帯のかおり高き果実やコーヒーを味わうことさえできる。呉服屋も来る、悉皆屋《しっかいや》も来る。たとい妻女に機織りや裁縫の心得はなくとも、私は別に着る物に困りはせぬ。今住んでいる家も、私は一度も頼んだことはないが、いつのまにか家主《やぬし》の建てておいてくれたものである。もちろんわずかにひざを容《い》るに足るだけのものではあるが、それでも庭には多少の植木もあり、窓には戸締まりの用意までしてある。考えてみると、私は私の一生を送るうちに,否きょうの一日《ひとひ》を暮らすにつけても、見も知らぬおおぜいの人々から実に容易ならざるお世話をこうむっているのである。しかしこれは私ばかりではない。私よりももっとよけいの金を持っている者は、広い世間に数限りなくあるが、それらの人々は一生のうち、他人《ひと》のためには一挙手一投足の労を費やすことなくとも、天下の人々は、争うて彼に対しさらにさらに多くの親切を尽くしつつある。そこで金のある人は考える。今の世の中ほど都合よくできているものはない。だれが命令するでもなく計画したのでもないのに、世界じゅうの人が一生懸命になって他人のために働くという今日のしくみは、不思議なほどに巧妙をきわめたもので、とても人知をもって考え出すあたわざるところであると。ここにおいてか、いやしくも現代の経済組織を変更し改造せんとする者ある時は、彼らは期せずしていっせいにかつ猛烈にこれを抑圧する。
 しかし気の毒なのは金のない連中である。ことわざに地獄の沙汰《さた》も金次第というごとく、金さえあれば地獄に落つべきものも極楽に往生ができるが、金がなくては極楽にゆくべきものも地獄に落ちねばならぬのが、今の世の中である。先ほども私は、世界じゅうの人が集まって私を親切にしてくれるとお話ししたが、しかしそれは私が多少ずつなりとも月給をもろうて金を持っているからである。家賃を滞らせば、ただ今の親切な家主も、おそらく遠からず私を追い出すであろう。一文もなくなったら、私は妻子とともに、この広い世界に枕《まくら》を置くべき所も得られぬであろう。私の寝ているうちに、毎朝早くから一日も欠かさずに配達してくれた新聞屋も牛乳屋も、もし私が月末にその代価を払わなくなったら、とてもこれまでのように親切にしてくれぬであろう。げに金のある者にとっては、今の世の中ほど便利しごくのしくみはないが、しかし金のない者にとっては、また今の世の中ほど不便しごくのしくみはあるまい。[#地から1字上げ](十一月十六日)

       九の三

 今の世の中は、金さえあればもとより便利しごくである。しかし金がなければ不便またこの上なしである。それが今の世のしくみである。それゆえ、一方にはその肉体の健康を維持するに必要なだけの衣食をさえ得ておらぬ者がたくさんいるのに、そんな事にはさらにとんじゃくなく、他方には金持ちの人々の需要する奢侈《しゃし》ぜいたく品がうずたかく生産されつつある。これをば単に金持ちの利己心の立場からのみ見たならば、誠に勝手のよい巧妙なしくみだといえるであろうが、もし社会全体の利益を標準として考うるならば、はたしてこれをこのままに放任しておいてよいものかという疑問が起こるのである。
 しかし不思議にもわが経済学は、現代経済組織の都合よき一面をのみ観察することによりてこれを謳歌《おうか》し、その組織の下における利己心の活動をば最も自由に放置することが、やがて社会公共の利益を増進するゆえんの最善の手段であるという主張をもって、創始せられたものである。
 思うに個人の私益と社会の公益とが常に調和一致するものなりちょう正統経済学派の思想の泉源は、遠くこれを第十八世紀の初頭に発せしもののごとくである。回顧すれば今より二百十余年前、一七〇五年、もとオランダの医者にして後英国に移住せしマンダヴィルという者は、自作の英詩に『不平を鳴らす蜂《はち》の群れ』という題をつけ、これを定価わずかに六ペンスの小冊子に印刷して公にした事がある。そうしてこの詩編は、それより八年後の一七一四年に、著者自らこれに注釈及び論文等を加え、『蜜蜂《みつばち》物語*』と改題して再版するに及び、はなはだしく世間の攻撃を受け、従ってまた著しく世人の注意をひくに至ったものであるが、これがそもそも英国における利己心是認思想の権輿《けんよ》である。
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* Manderville, Fable of Bees.
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『蜜蜂物語』は一名『個人の罪悪はすなわち公共の利益なり』と題せるによっても明らかなるごとく、各個人がその私益私欲をほしいままにするという事がやがて公共の利益、社会の繁栄を増進するゆえんであると説いたものである。大正のみ代のかたじけなさには、二百十余年前遠き異国でものされたこの物語も、今日は京都大学の図書館にその一本が備え付けられてある。すなわち試みに蜜蜂の詩の末尾に置かれたる「教訓」と題する短詩を見るに、その末句は次のごとくである。
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「さらば悲しむをやめよ、
正直なる蜜蜂の巣をして、
偉大ならしめんとするは、
ただ愚者のなす業《わざ》である。
「大なる罪悪なくして、あるいは
便利安楽なる世の貨物を享受し、
あるいは戦争に勇敢にしてしかも
平時安逸に暮らさんとするは、
ひっきょうただ脳裏の夢想郷である。
     ×
「かくのごとく罪悪なるものは、
そが正義もて制御せらるる限り、
誠に世に有益なる泉である。
否国民にして大ならんとせば、
罪悪の国家に必要なるは、
人をして飲食せしむるに
飢渇の必要なるがごとくである。」
[#ここで字下げ終わり]
 私は今この蜜蜂物語の内容をここにくわしく紹介する余白をもたぬけれども、以上の一二句によりて見る時は、個人の私欲はすなわち社会の公益をもたらすものなりちょう思想が、おおよそいかなる調子で説き出されてあるかがわかるであろう。
 ともあれ、今より二百十余年前、英国に帰化したオランダの一医者が歌い出したこの一編の悪詩は、奇縁か悪縁か、後に至って正統経済学派の根本思想を産むの種子《しゅし》となったものである。はなはだあわれな出発点だが、わが経済学の素性《すじょう》を洗えば、実はかくのごときものである。
[#地から1字上げ](十一月二十二日)

       九の四

 一たびマンダヴィルによって創《はじ》められた利己心是認の論は、その後ヒューム、ハチソンその他の倫理学者の手を経て、ついにアダム・スミスに伝えられた。
 アダム・スミスはもとグラスゴー大学の道徳哲学《モーラルフィロソフィー》の教授であったが、のち職を辞して仏国に遊び、それより帰国ののちは、自分の郷里なるスコットランドの小都市カーコゥディーに蟄居《ちっきょ》し、終生ついに妻を迎えず、一人の老母とともに質素平和の生活を営みつつ、黙々として読書思索に没頭すること幾春秋、ようやく一七七三年の春になって、彼は一巻の草稿をふところにしてロンドンに向け出発した。しかしてこの草稿こそ、その後さらに三個年間の増補訂正を経、一七七六年三月九日始めて世に公にさるるに至ったところの有名なる『国富論《ウエルス・オブ・ネーションズ》』であって、わが経済学はまさにこの時をもってこれとともに生まれたものである。
 スミスが仏国遊学後、自分の郷里なる田舎町《いなかまち》のカーコゥディーに引っ込んで送り得た約六年の歳月は、外から見ては誠に平静無事な六年であったが、彼自身にとっては実に非常なる大奮闘の時代であって、すなわち彼はこの間においてその肉を削りその血を絞りつつ、彼が終生の大著たる『国富論』の完成に熱中したのであった。されば稿ようやく成るののち、一七七三年の春、これをふところにしてロンドンに向かって立つや、彼は精力気力すでにことごとく傾け終えたるがごとき気持ちであった。その時彼は、ロンドンにたどり着く途中、いつどこの客舎で死ぬかもしれぬと思ったほど、気力の衰えを感じたのである。されば彼がまさにロンドンに向かって出発せんとせる時、同年三月十六日の日付をもって、エディンバラより友人ヒュームにあてたる手紙の中には、万一の場合の後事を委託し、かつ「もし私がきわめて突然に死ぬるような事のない限り、私は今私の持っている原稿をば(それがすなわち『国富論』の原稿である)間違いなくあなたに送らすように注意するつもりである」とさえ言ってあるのである。
 私はスミスの伝を読んでこれらの章に至るごとに、古人の刻苦力を用うるの久しくしてかつ至れる、その勝躅《しょうちょく》遺蹤《いしょう》、大いにもって吾人《ごじん》を感奮興起せしむるに足るあるを磋嘆《さたん》するに耐えざる者である。しかしこの年代におけるスミスの衰弱の原因については、私は久しく多少の疑いをたくわえていた。元来スミスは蒲柳《ほりゅう》の質であった、それが数年
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