から、実に矛盾した話であるが、しかしこの一例によってみても、今日の経済組織の欠陥の那辺《なへん》にあるかはよくわかる。
世間社会問題を論ずる者、往々にして浅近の所に着眼し、貧乏を根治するの策は、一に貧民の所得を増加するにあるがごとく思惟す。さりながらいかに彼らの所得を増加したりとて、他方において富者の富がさらにいっそうの速度をもって増加する以上、貧富の懸隔はますますはなはだしきを加え、従うて天下の生産力が奢侈《しゃし》ぜいたく品の産出に吸収さるるの弊は、あえてこれがために匡正《きょうせい》さるることなく、その結果たとい貧乏人の貨幣所得は多少ずつ増加することありとも、生活必要品の価格はさらにそれ以上の速度をもって騰貴し、これがため彼らの生活はかえって苦しくなるばかりであろう。
これを要するに、今日生活の必要品が充分に生産されて来ぬのは、天下の生産力が奢侈ぜいたく品の産出のために奪い去られつつあるがためである。多数貧民の需要に供すべき生活の必要品は、少し余分に造ると、じきに相場が下がってもうけが減るから、事業家はわざとその生産力をおさえているのである。しかして余の見るところによれば、これが今日文明諸国において多数の人々の貧乏に苦しみつつある経済組織上の主要原因である。
さてかくのごとく論じきたる時は、私の議論はいつのまにか循環したようである。なぜというに、私は最初、今日なぜ貧乏人が多いかといえばそれは生活必要品の生産額が足らぬからだと言った。しかるにさらに進んで、なぜ生活必要品の生産額が充分にならぬかと尋ねられると、それはほしいと思っている人はたくさんあっても、その人たちが充分な資力をもっておらぬからだと答えた。ところが充分に資力をもっておらぬ者はすなわち貧乏人であるから、つまり私の説によると、生活必要品の生産額が不充分なのは社会に貧乏人が多いからだということになる。すなわちなぜ貧乏人が多いかといえば生活必要品の生産が足らぬのだと言い、なぜ生活必要品の生産が足らぬかと言えば貧乏人が多いからだと言っているので、なんだか私は手品を使って、この最難関をごまかしながら抜け出たように見える。しかしこれは私の議論が循環しているのではなくて、実際の事実が循環しているのである。いずれその事は後に至ってさらに詳論するつもりであるが、ともかく以上述ぶる所によって考うれば、貧乏問題は一見すれば分配論に局限されたる問題のごとくにして、実は生産問題と密接なる関係を有するものなる事を看取するに足るであろう。思うに世上社会問題を論ずるもの往々これをもって単純に富の分配に関する問題となし、その深く現時の生産組織と連絡するところあるを看過する者すこぶる多し。これ余が特に如上の点を力説して、しかる後問題の解決に進まんとせしゆえんである。[#地から1字上げ](十月二十日)
八の一
今や天高く秋深くまさに読書の好時節なりといえども、著者近来しきりに疲労を覚え、すこぶる筆硯《ひっけん》にものうし。すなわちこの物語のごときも、中絶することすでに二三週、今ようやく再び筆を執るといえども、駑馬《どば》に鞭《むちう》ちて峻坂《しゅんぱん》を登るがごとし。
それ貧乏は社会の大病である。これを根治せんと欲すれば、まず深くその病源を探ることを要す。これ余が特に中編を設け、もっぱらこの問題の攻究にあてんと擬せしゆえんである。しかもわずかに粗枝大葉の論を終えたるにとどまり、説のいまだ尽くさざるものなお多けれども、駄目《だめ》を推さばひっきょう限りなからん。すなわち余はしばらく以上をもって中編を結び、これより直ちに下編に入らんとす。下編はすなわち貧乏退治の根本策を論ずるをもって主題となすもの、おのずからこの物語の眼目である。
今論を進めんがため、重ねて中編における所論の要旨を約言せんか、すなわちこれを左の数言に摂することを得《う》。いわく、
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(一) 現時の経済組織にして維持せらるる限り、
(二) また社会にはなはだしき貧富の懸隔を存する限り、
(三) しかしてまた、富者がその余裕あるに任せて、みだりに各種の奢侈《しゃし》ぜいたく品を購買し需要する限り、
[#ここで字下げ終わり]
貧乏を根絶することは到底望みがない。
今日の社会に貧乏を絶たざるの理由すでにかくのごとし。されど吾人《ごじん》にしてもしこの社会より貧乏を根絶せんと要するならば、これら三個の条件にかんがみてその方策を樹《た》つるのほかはない。
第一に、世の富者がもし自ら進んでいっさいの奢侈《しゃし》ぜいたくを廃止するに至るならば、貧乏存在の三条件のうちその一を欠くに至るべきがゆえに、それはたしかに貧乏退治の一策である。
第二に、なんらかの方法をもって貧富の懸隔のはなはだしきを匡正《きょうせい》し、社会一般人の所得をして著しき等差なからしむることを得《う》るならば、これまた貧乏存在の一条件を絶つゆえんなるがゆえに、それも貧乏退治の一策となしうる。
第三に、今日のごとく各種の生産事業を私人の金もうけ仕事に一任しおくことなく、たとえば軍備または教育のごとく、国家自らこれを担当するに至るならば、現時の経済組織はこれがため著しく改造せらるるわけであるが、これもまた貧乏存在の一条件をなくするゆえんであって、貧乏退治の一策としておのずから人の考え至るところである。
さてわれわれが今、当面の問題をば単に机上の空論として取り扱うつもりならば、われわれは理論上以上の三策に対してほぼ同一の価値を下しうる。しかしながら、採ってもって直ちにこれを当世に行なわしめんとするにあるならば、おのずから別に周密なる思慮を加うるを要する。
たとえば、難治の大病にかかって長く病院にはいっていた者が、近ごろ次第に快方に向かったというので、退院を許され、汽車に乗って帰郷の途についたとする。しかるに不運にも汽車が途中で顛覆《てんぷく》してその人もこれがために重傷を負うて死んだとする。今この一例について考うるに、もし汽車が顛覆しなかったならば、この人はたしかに死ななかったはずである。しかしたとい汽車は顛覆しても、もしその病気が快方に向かわなかったならば、この人は退院も許されず、従って帰郷の途につくはずもなかったのであるから、やはり死を免れたはずである。すなわちこの人の死を救わんとすれば、われわれはこれら二条件のいずれか一をなくすればよいのであるが、しかし汽車をして顛覆せしめざるの方策を講ずるのはさしつかえないけれども、その人の病気をして快方に向かわしめざるの方策を講ずるというは間違いである。もし引き続きさような事をしたならば、その人は汽車でけがをして死ぬることこそなくとも、ついには病院の床の上で医者に脈をとられつつ死ななければならぬのである。思うに以上述べたる貧乏根治策のうち、あるいはこれに類するものなきやいかん。けだし上記三策の是非得失ならびにその相互の間における関係連絡に至っては、おのずからさらに慎重なる考慮を要すべきものならん。請う余をして静かにその所思の一端を伸べしめよ。[#地から1字上げ](十一月十一日)
八の二
余は前回において貧乏根絶策として考えうべきもの三策あることを述べ、すでにその大要を説きおえたりといえども、なおいささか尽くさざるところあるがゆえに、本日は重ねてまた同一事を繰り返す。
今日経済上の技術はすでに非常なる進歩を遂げたるにもかかわらず、何ゆえ生活必要品の生産が充分に行なわれずして、多数の人々はその肉体の健康を維持するに足るだけの衣食さえ、これを得《う》ることあたわざるの状態にあるかといえば、それはすでに述べしごとく、富者がその余裕あるに任せ、みだりに各種の奢侈《しゃし》ぜいたく品を需要するがゆえに、天下の生産力の大半がこれら無用有害なる貨物の生産に向かって吸収され尽くすがためである。さればもし世間の金持ちがいっさいの奢侈ぜいたくを廃止するならば、たとい社会には依然としてはなはだしき貧富の懸隔を存し、また社会の経済組織もすべて今日のままに維持せらるとも、私のいうがごとき貧乏人(すなわち金持ちに比較していう貧乏にあらず、肉体の健康を維持するだけの生活必要品をさえ享受することあたわざる状態にあるという意味の貧乏人なり)は、すべて世の中から跡を絶つに至るべきはずである。これ余が、富者の奢侈《しゃし》廃止をもって貧乏退治の第一策となすゆえんである。
しかしたとい今日の富者が自ら進んで倹素身を持するに至らずとも、もしなんらかの方法をもって、一方には富者のますます富まんとするの勢いをおさえ、他方には貧者(金持ちに比較していう貧乏人)をして次第にその地位を向上せしめ、かくて貧富の懸隔のはなはだしきを匡正《きょうせい》し、一般人の所得をして比較的平等に近づくを得せしむるならば、われわれはその方法のみによっても、貧乏退治の目的を達することができる。けだしすでに一般人の所得にしてはなはだしき差異なからんか、一国の購買力はおのずから社会の最大多数の人々の必要品に向かって振り向けらるべきがゆえに、たとい社会の経済組織は全く今日のままにて、すなわち貨物の生産者はすべて自己の営利をのみ目的とし、もっぱら需要ある貨物、言い換うれば金を出して買い手のある貨物をのみ生産するしくみとなりおるとも、今日のごとく無用有害の奢侈ぜいたく品のみうずたかく製造され、多数人の生活必要品の生産は捨てて顧みられざるがごとき悲しむべき状態は、幸いにしてこれを免れうるからである。これ余が、貧富懸隔の匡正をもって貧乏退治の第二策となすゆえんである。
しかるにさらに考うれば、たとい第一策にして行なわれず、まだ第二策にして行なわれずとするも、もし今日の経済組織を改造すれば、やはり貧乏退治の目的を達しうるがごとくである。少なくともそういう事を考え浮かぶ人がありうるはずである。何ゆえというに今日多数人の生活必要品が充分に生産されぬのは、貨物の生産というたいせつな事業が私人の金もうけの仕事に一任してあるからである。一国の軍備でも教育でももしこれを私人の金もうけの仕事に一任しておくならば、到底その目的を達し得らるるものではない。しかるに軍備よりも教育よりもなおいっそうたいせつなる生活必要品の生産という事業をば今日は私人の金もうけの仕事に一任しているから、それで各種の方面に遺憾な事が絶えないのである。ゆえに今日の貧乏を退治せんとすれば、よろしく経済組織の改造を企て、私人の営利事業のうち、国民の生活必要品の生産調達をつかさどるものは、ことごとくこれを国家事業に移すべしなどいう思想が出て来るのである。これ余が経済組織の改造をもって貧乏退治の第三策となすゆえんである。今余は便宜のため、以下まずこの第三策より吟味するであろう。[#地から1字上げ](十一月十四日)
九の一
「経済学は英国の学問にして、英国は経済学の祖国なること、たれ人も否むあたわざるの事実なり」(福田《ふくだ》博士の言)。今その英国に育ちたる経済学なるものの根底に横たわりおる社会観を一言にしておおわば、現時の経済組織の下における利己心の作用をもって経済社会進歩の根本動力と見なし、経済上における個々人の利己心の最も自由なる活動をもって、社会公共の最大福利を増進するゆえんの最善の手段なりとなすにある。しかるに、元来人は教えずして自己の利益を追求するの性能を有する者なるがゆえに、ひっきょうこの派の思想に従わば、自由放任はすなわち政治の最大|秘訣《ひけつ》であって、また個人をしてほしいままに各自の利益を追求せしめおかば、これにより期せずして社会全体の福利を増進しうるということが、現時の経済組織の最も巧妙なるゆえんであるというのである。すなわち現時の経済組織を謳歌《おうか》し、その組織の下における利己心の妙用を嘆美し、自由放任ないし個人主義をもって政治の原則とすということが、いわゆる英国正統学派の宗旨とするところである。さればいや
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