物を得ておらぬ者はたくさんあろうと思う。もちろんまずい物でもなんでも腹一杯詰め込んでおれば、本人は別にひもじいとは思っておらぬであろうが、しかし医者の目から見て営養不足に陥っている者は少なからずいるだろうと思う。それならばそれらの人々に当てがわるべき米の飯なり魚肉なり獣肉なりが、金持ちのためにみんな奪い取られているかと言えば、無論金持ちは金持ち相応にぜいたくな金のかかった食事をしているであろうが、しかしそれかというて、それらの金持ちが毎日一人して百人前千人前の米や肉を食べているわけではない。あるいはまた冬の夜、寒さを防ぐに足るだけの夜具、衛生にさしつかえないだけの清潔な蒲団《ふとん》、それをさえ充分に備えていない家族も少なくはあるまいと思うが、それならば金持ちの所へ行ってみると、これらの貧乏人に渡るべきはずの木綿《もめん》の夜具がことごとく分捕って積み重ねてあるかといえば、決してそんなわけのものではない。
 されば今日社会の多数の人々が、充分に生活の必要品を得《う》ることができなくて困っているのは、たくさんに品物はできているがただその分配のしかたが悪いというがためではなくて、実は初めから生活の必要品は充分に生産されておらぬのである。
 それならばなぜ、そういうたいせつな品物がまだ充分にできておらぬのに、都会に出てみると、至る所の店頭にさまざまのぜいたく物や奢侈品《しゃしひん》が並べられてあるかといえば、実はそこに今日の経済組織の根本的欠点があるのである。
 けだし今日の経済社会は、需要ある物に限りこれを供給するということを原則としているのである。ここに需要というは、単に要求というと同じではない。一定の要求に資力が伴うて来て、始めてそれが需要となるのである。たとえば襤褸《ぼろ》をまとうた乞食《こじき》がひだるそうな面《つら》つきをしながら、宝石店の飾り窓にのぞき込んで金指輪や金時計にあこがれたとて、それは単純な欲求で、購買力を伴うた需要というものではない。しかして今日の経済組織の特徴は、かくのごとき意味における需要をのみ顧み、かかる需要ある物に限りこれを生産するという点にある。しからばその需要なるものは、今日の社会でどうなっているかといえば、生活必要品に対する需要よりも、奢侈ぜいたく品に対する需要のほうが、いつでもはるかに強大優勢である。これ多くの生活必要品がまずあと回しにされて、無用のぜいたく品のみがどしどし生産されて来るゆえんである。
[#地から1字上げ](十月十七日)

       七の二

 けだし生活必要品に対するわれわれの需要にはおのずから一定の制限あるものである。かつて皆川淇園《みながわきえん》は、酒数献にいたれるときは味なく、肴《さかな》数種におよぶときは美《うま》みなく、煙草《たばこ》数ふくに及ぶときは苦《にが》みを生じ、茶数|椀《わん》におよぶときは香《かん》ばしからずと言ったが、誠にその通りで、たとえばいくら酒好きの人で、初めのうちは非常にうまいと思って飲んでいても、だんだん杯を重ねるとそれに従うて次第次第に飽満点に近づいて来る。そうして一たんその飽満点に達したならば、それから上は、いかなる上戸《じょうご》でも、もういやだという事になる。いくら食物が人間の生活に必要だといっても、いわゆる食前方丈所[#レ]甘不[#レ]過[#二]一肉之味[#一]〈食前方丈なるも甘んずる所一肉の味に過ぎず〉で、日に五合か六合の飯を食えばそれで足りる。それより以上は食べたくもなし、食べられるものでもなし、食べたからとてからだをこわすばかりである。さればいかなる金持ちでも、その胃袋の大いさが貧乏人とたいした違いなく、足もやはり貧乏人と同じように二本しかないならば、その者が自分で消費するために金を出して買うところの米とか下駄《げた》とかいうものには、おおよそ一定の限度があるべきはずである。そこでこれら金持ちの人々の需要の大部分はおのずから奢侈品《しゃしひん》に向くことになるのである。米を買ったり下駄を買ったりしただけでは、まだたくさんの金が残るからして、その有り余る金をばことごとく奢侈品に向けて来る。そこで奢侈品に対するきわめて有力なる需要が起こると同時に、生活必要品に対する貧乏人の需要のごときはこれがため全く圧倒されてしまうのである。しかるに今日の経済組織の下においては天下の生産者はただ需要ある物のみを生産し、たといいかに痛切なる要求ある物といえども、その要求にして資力を伴わざる限り、捨ててこれを顧みざるを原則としつつある。これ今の時代において、無用有害なる奢侈ぜいたく品のうずたかく生産されつつあるにかかわらず、多数人の生活必要品のはなはだしく欠乏を告げつつあるゆえんである。
 たとえば、貧乏人がわずかばかりの金を持ち出して来て、もっと米を作ってくれと言ったところで、そう安く売っては割りに合わぬから、だれも相手にする者はない。そこへ金持ちが出て来て、世の中にはずいぶん貧乏人がいて、米の飯さえ腹一杯よう食わぬ人間がいるということだが、さてさて情けないやつらである。おれなぞははばかりながら世間月並みのお料理にも食い飽きた。心の傷《いた》める人の前にて歌を歌うことなかれという事もあるが、それはどうでもよいとして、きょうは何か一つごくごく珍しいものを食べてみたい。しかし一人で食べてはおもしろうない、おおぜいの客を招き、山海の珍味を並べて皆を驚倒さしてやろう、などと思い立ったとすると、彼はさっそく料理人を呼ぶ。そうして、金はいくらでも出すから思い切って一つ珍しい料理をしてみてくれ、まず吸い物から吟味してかかりたいが、それはほととぎすの舌の澄汁《すまし》とするかなどと命じたならば、さっそくおおぜいの人がほととぎすを捕りに山にはいるというような事になって、それだけたとえば米を作るなら、米を作る人の数が減ることになる。すでに米を作る人が減って来れば、それに応じて米の生産高は減じ、従うて米の値も高くなるであろうが、いくら米価は騰貴しても金持ちにはいっこうさしつかえはない。ただ困るのは貧乏人で、わずかばかりの収入では家族一同が米の飯を腹一杯食うことさえできぬというふうにだんだんなって来るのである。
[#地から1字上げ](十月十八日)

       七の三

 以上はただ話をわかりやすく言っただけのもので、実際の社会はきわめて複雑であるけれども、要するに今日の経済組織の下においては、物を造り出すということが私人の金もうけ仕事に一任してあるから、そこで金を出す人さえあれば、どんな無用なまた有害な奢侈《しゃし》ぜいたく品でもどしどし製造されると同時に、もし充分に金を出して買いうる人がおおぜいおらぬ以上、いかに国民の全体または大多数にとってきわめてたいせつな品物であっても、それが遺憾なく生産されるというわけには決してゆかぬのである。
 たとえばこれを英国における靴《くつ》の製造業について見るも、無論立派な機械がだんだん発明されて来ているから、その生産力は非常にふえている。しかしそれならば靴の製造高は昔に比べて非常に増加したかというに、決してそうではない。これはなぜかといえば、いくら金持ちだからといって、靴のごときものをそうたくさん買い込むものではない。もっともそのほかにたくさん貧乏人がいて、これらの貧乏人は皆靴がほしいほしいと言っているけれども、ほしいと言うばかりで、ろくに金を出す力がない。もし靴の値段をうんと下げたなら、これらの貧乏人もみんな買うであろうが、しかしそう値段を下げては割りに合わぬから、それで製造業者の力では最初からたくさんの靴は造らぬのである。かようなわけでせっかく機械が発明されても、そうたくさん機械が据《す》え付けらるるわけでもなく、また機械のため生産力そのものはにわかにふえて来ているのに、生産高はその割合にふやさぬということであるから、そこで職工は次第に解雇されて、失業者の群れに入ることになる。かくのごとくにしてせっかく発明された機械も充分に普及されず、立派な手を備えて働きたいと思っている者も口がなくて働けず、機械も人もともにその生産力をおさえられ、十二分の働きのできぬようにされているのである。
 こういったような議論をかつてチオザ・マネー氏がデーリー・ニュースという新聞紙に掲げたところが、氏は読者の一人から次のごとき手紙をもらったことがあるという。(同氏著『富と貧』一三三ページ)
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「あなたが月曜日及び火曜日の紙上で靴《くつ》の事についてお書きになったことは、私は全くほんとうだと思います。それについては私自身の経験があります。私は鉄道の一従業者で、引き続き奉職していて、ただ今は一週三十シリングずつもらっております。……しかし一九〇三年には私の労賃は二十五シリング六ペンスでした。そうしてその時から私は六人の子供をもっていますが、ちょうどそのおりの事です、私の家の隣に靴の製造及び修繕を業としておる者がいましたが、その人はそのころ業を失ってすでに数個月も遊んでいたのです。そのころ私の子供の靴は例のとおり修繕にやらなければならなくなっていましたが、金がないので修繕に出すことができません。それでしかたなしに自分でへたな細工をしておりますと、ある日のことです、ちょうど私は壁のこちら側で靴の修繕をやっていると、業を失った隣の人は壁の向こう側にいて、私がやむを得ずさせられている仕事を、自分にやらしてくれればよいのにという顔つきをしていました。私がその時の事情を考えた時に、私の心の中を通ったいろいろの感情は、私のいまだに忘れる事のできぬところです。それゆえあなたの靴業に関する議論を読むと、すぐにまた当時の事を思い起こして、ここにこの手紙をあなたにさしあげる次第です*……。」
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* Chioza−Money, Rich and Poor, p. 133.
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 これは一人の職工の短い手紙ではあるけれども、これを読むと、私は大家の筆に成った長編の社会劇を読んだ時と同じ印象を得《う》るような気持ちがするのである。
 今日ダイヤモンドの世界産額のうち九割五分だけのものは南アフリカのキンバーレーという所の鉱山より産出されつつあるが、そこの鉱脈はすこぶる豊富で、掘り出せばまだいくらでも生産されるのであるが、しかしそうたくさんに売り出しては価格が下落してかえって利潤の総額が減るから、そこの鉱山会社ではわざとその産額を制限しているのである。南アのダイヤモンド生産は一会社の独占に帰していて、その生産制限が特に目立って行なわれているがために、今日は世界周知の事実となっておるが、もしもわれわれが、一段の高処に立って天下を大観したならば、これと同じようなる生産制限は、世界経済界の至る所に、各種の事業を通じて、あまねく行なわれつつあるを看取するに難からぬであろう。これ有力なる機械の発明されたる今日、貧乏に苦しむ者のなお四方にあまねきゆえんである。[#地から1字上げ](十月十九日)

       七の四

 私は前回に縁の遠い英国の靴《くつ》製造業の事など持ち出して、しばらく問題を当面の日本から遠ざけておいたが、実は手近な所にも、同じように明瞭な実例がたくさんある。たとえば近ごろわが国に行なわれた米価調節なるものがそれである。米がたくさんできるということは実によろこばしい事で、現にこれがためには全国各府県に農事試験場などを設けてしきりにその生産増加を奨励しているのである。しかるにたくさんできると値段が安くなる。しかも安くなっては農家のもうけが減るというので、政府はいろいろに骨を折って、今度は米価をつり上げるくふうをしている。一方には日々の米代の支払いにも困っている者がたくさんある。腹一杯米の飯をよう食わぬ者もおおぜいいる。それに政府は、米の値段を高くするために、委員会などを設け、天下の学者実業家を寄せ集めて、いろいろと骨を折らねばならぬというのである
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