集) 花間集は皆な唐末五代の時人の作。斯《こ》の時に方《あた》つて、天下岌岌、生民死を救うて暇《いとま》あらず、士大夫乃ち流宕|此《かく》の如し。歎ずべけんや。或は無聊の故に出づるか。(渭南文集、巻三十)
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(十六)
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(跋詩稿) これ予が丙戌以前の詩、二十の一なり。厳州に在るに及んで、再編、又た十の九を去る。然かも此の残稿|終《つひ》に亦た之を惜み、乃ち以て子聿に付す。紹煕改元立夏日書。(渭南文集、巻二十七)
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○丙戌は乾道二年、放翁四十二歳の時に当る。厳州にて再編すと云ふは、淳煕十四丁未年、放翁六十三歳の時に属す。この年始めて詩を刻せり。紹煕元年庚戌は六十六歳の時に当り。以後家居、この年また詩稿を刪訂せるなり。
○趙翼の甌北詩話には、次の如く書いてある。「古来詩を作るの多き放翁に過ぎたるはなし。今その子、子※[「虚/八」、よみは「きょ」、498−15]が編する所の八十五巻に就いて之を計るに、已に九千二百二十首。然かも放翁六十三歳、厳州に在りて詩を刻し、已に旧稿を将《と》つて痛く刪汰を加ふ。六十六歳、家居して又た詩稿を刪訂す。自跋に云ふ、これ予が丙戌以前の詩、十の一[#「十の一」に白丸傍点]なり、厳州に在りて再編、又た十の九を去ると。然らば則ち丙戌以前の詩にして存する者は才《わづか》に百の一のみ」。即ち私の見てゐる渭南文集には、丙戌以前詩二十之一としてあるのが、趙翼の引く所では十之一となつてゐる。私は今どちらが正しいかを確め得ない。
(十七)
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岑参の西安幕府に在るの詩に云ふ、那《ナン》[#(ゾ)]知[#(ラン)]故園[#(ノ)]月、也《マタ》到[#(ル)]鉄関[#(ノ)]西と。韋応物作郡の時亦た詩あり云ふ、寧《ナン》[#(ゾ)]知[#(ラン)]故園[#(ノ)]月、今夕在[#(リ)][#二]西楼[#(ニ)][#一]と。語意悉く同じ、而かも豪邁間澹の趣、居然自ら異る。(老学庵筆記、巻三)
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(十八)
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劉長卿の詩に曰く、千峰共[#(ニス)][#二]夕陽[#(ヲ)][#一]と。佳句なり。近時僧癩可これを用ひて云ふ、乱山争[#(フ)][#二]落日[#(ヲ)][#一]と。工《
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