情[#一]
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といふ七絶の題には、「少年の時、嘗て一村院を過《よ》ぎり、壁上に詩あるを見る。云ふ、夜涼疑[#レ]有[#レ]雨、院静似[#レ]無[#レ]僧と。何人の詩なるやを知らざる也。黄州禅智寺に宿せしに、寺僧皆な在らず、夜半雨|作《おこ》り、尚ほ此の詩を記《おぼ》ゆ。故に一絶を作る」としてある。知是何人旧詩句の知るは、知らずの意であること、言ふまでもない。東坡の詩によつて伝へられた此の句は、私のやうなものでも記憶してゐるから、長生して書物ばかり読んでゐた放翁が、ふとこんな事を見付けて居るのは、何も不思議はない。潘逍遥は名を※[#「門<良」、第3水準1−93−50]《ラウ》と云ふ。宋の太宗に召されて進士第を賜ひ、事に坐して中条山に遁れ、後収繋されしも、真宗その罪を釈し、※[#「さんずい+除」、第3水準1−86−94]州参軍となす。詩集及び詞集あり。日本では中野逍遥、坪内逍遥などいふ文学者が居た。これらの人はこの潘逍遥を知つて居たのであらうか。
(十二)
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(跋淵明集) 吾年十三四の時、先少傅に侍し城南の小隠に居る。偶※[#二の字点、1−2−22]《たまたま》藤床上、淵明の詩あるを見、因て取りて之を読む。欣然会心、日|且《まさ》に暮れんとし、家人食に呼ぶも、詩を読む方《まさ》に楽く、夜に至つて卒《つひ》に食に就かず。今之を思ふに、数日前の事の如く也。慶元二年、歳在乙卯、九月二十九日。山陰陸某務観、書於三山亀堂、時年七十有一。(渭南文集、巻二十八)
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○放翁六十九歳の作に読陶詩と題するものあり、その冒頭に、「我が詩淵明を慕ふ、恨むらくは其の微に造《いた》らざることを」とあり、また八十三歳の作に自勉と題するものあり、その冒頭には、「詩を学べば当《まさ》に陶を学ぶべく、書を学べば当に顔を学ぶべし」としてある。以て如何に彼が陶淵明に傾倒せしかを知るに足る。
(十三)
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茶山先生云ふ。徐師川、荊公の細[#(ニ)]数[#(ヘ)][#二]落花[#(ヲ)][#一]因[#(リテ)]坐[#(スルコト)]久[#(ク)]、緩[#(ニ)]尋[#(テ)][#二]芳草[#(ヲ)][#一]得[#(ルコト)][#レ]帰[#(ヲ)]遅[#(シ)]に擬して云ふ、細[#(ニ)
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