刑の宣告を受けたけれども、その後脱獄に成効し、日本、米国を経由し、仏国に渡つてから病死した。彼が長崎から東京に行つた折には、日本の社会主義者は彼の名誉のため厳粛な歓迎会を催し、また彼が横浜を立つ前には特に送別会を開いた。)私はそこへ、「暗殺さるる者よりも、暗殺する者の方が、より鋭き良心の所有者たること在り得るを注意せよ。」といふやうな感想を書き加へてゐる。また一九〇六年、二十八歳の妙齢を以て断頭台の露と消えたコノプリアンニコーファといふ婦人の裁判廷における陳述の中には、「汝等は余に死刑を宣告するであらう。しかし如何なる場所で余は死ぬるにしろ、――絞首台にしろ、流刑地にしろ、その他如何なる場所であつても、――余はただ一つの考を以て死にゆく。「許せ我が人々! 我の汝に与へ得るところのものは、僅に我がいのち、ただこれしかない。」かくて余は、嘗て詩人の歌ひけるやう、「□□はよろめき倒れるであらう、そして自由の太陽が、ロシヤの全平野に上ぼるであらう。」といふ日の来るべきことの、固き信念を以て死にゆくであらう。」とか、「生活そのものが私に次の如く教へた、……汝は銃剣を以て思想を刺し殺すことが出来な
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