臣、内大臣)は懲戒免官に処せられた。
 当時私はこの事件が自分に何等かの関係があらうとは、夢にも思はなかつた。しかし難波家は、私の義弟大塚有章が養子に行つてゐる国光家と姻戚関係があつたので、予審の内容は一切極秘に附せられて居たにも拘らず、難波の陳述中に「断片」が自分のために最後の決意をなさしめたといふ自白のあることが分かつた。初めてその事を聞き知つた義兄の大塚武松は、当時文部省の維新史料編纂官を勤めてゐたが、事の重大なるを憂慮し、東京に居た私の末の弟、左京に旨を含めて京都まで知らせに寄越した。手紙に書くことをすら用心したのである。
 この難波大助といふ青年は、――後年の共産党員が、一たび検挙されると、有名な巨頭から無名の末輩に至るまで、相次いで転向の誓約を敢てしたのとは反対に、――最後までその自信を曲げず、徹頭徹尾、毅然たる態度を持した、世にも珍らしい、しつかりした男であつた。彼のために裁判長をした当時の大審院長(今その名を逸す)は、後年退官後、何十年かに亘る彼の司法官生活の回顧の中で、自分の取扱つた被告は無数であるが、その数多き被告の中で、自分は難波くらゐしつかりした男を見たことがな
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