、あれでは健康を害するであらうと気遣つてゐた父は、大助が心機一転したらしいのを見て、喜んでその申出を許した。で大助は公然火薬購入の免許を得、そのピストル銃を持つて山にはいり、長い間射撃の練習をした。そして漸く自信を得たので、今度は東京の情勢や地理などを研究するために、暫く東京に出てゐた。
ところが大正十二年の九月一日には、(それは「断片」が出てから二ヶ年余り過ぎた頃のこと、)関東に大震災が起つて、東京は忽ち焼野原となり、夥しい人々が惨死を遂げ、損害は五十五億円の巨額に達した。この時、無政府主義者大杉栄は甘粕といふ憲兵大尉に惨殺され、また南葛労働組合の幹部であつた平沢計七、河合義虎等数名の者も亀戸で惨殺され、更に無名の朝鮮人で何の謂はれもなく惨殺された者は無数に上ぼつたが、かうした事件は恐らく難波大助に少からざる刺戟を与へたものであらう。
彼は愈※[#二の字点、1−2−22]その宿志を決行するため、震災後東京を立つて郷里に向つた。例のステッキを取りに帰つたのである。
丁度震災後間もなくのことであつた、まだ交通運輸の状態も平生に復して居らず、時折罹災者と称して金の無心をする者が訪ねて
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