通の日本人には読みにくき物を作り、次に韻字平仄に骨を折つて、本場のチンプンカンプンに珍重されず、日本読みには無関係、何にもならぬ話。」
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 放庵は何にもならぬと云つてゐるが、しかし今の日本では、漢詩作法などいふ入門書が依然として新たに刊行されて居り、詩吟など云ふものも(私はこの詩吟なるものの調子を好んでゐる訳ではないが)相変らず流行してゐる。この事実は、ただ馬鹿げた話だとけなしただけでは説明がつかない。
 畢竟、日本読みにする漢詩は、日本の詩であつて、支那の詩ではないのだ。かうした日本の漢詩を、支那人が支那の詩として見た場合、依然として鑑賞に値すれば、これに越したことはないが、しかしさうでないからと云つて、日本読みにするために作られた日本の漢詩は、日本の詩として依然独立の存在価値を保つことを妨げないのである。

                ○

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をかにきて ほがらかに
なくやうぐひすありしひの
たにまのゆきにまじへたる
こほるなみだはしるひとぞしる
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 佐藤春夫のこの詩は、仮名ばかりで書かれてあることによつて其の美しさを増してゐる。少くとも漢字と仮名の混用より生ずる醜さから免れてゐる。和歌を万葉仮名で書く人があるのも、紙に書いた上での斯かる醜さを避けて居るのであり、画家が自分の作品に字を題する場合、仮名混りの文章を嫌ふのも、同じ理由からである。象形文字と音符文字と、全然性格を異にする文字を混用しては、どんなに工夫しても美しくは書けない。文字そのものが混雑して居るからである。漢字と仮名を混用した和歌や俳句が普通には小さな短冊に書かれ、漢詩が大きな画箋紙などに大書されるのと趣を異にしてゐるのは、その関係からである。
 支那でのみ書道なるものが発達したのも、象形文字の美しさからである。ローマ字国では字を書いて楽む人はない。
 漢字の魅力は、日本人が未だに漢詩を作る原因の一つである。

                ○

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七年不到楓橋寺    七年到らず楓橋の寺、
客枕依然半夜鐘    客枕依然、半夜の鐘。
風月未須輕感慨    風月未だ軽々しく感慨するを須ゐず、
巴山此去尚千里    巴山|此《ここ》を去る尚ほ千里。
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これは宿楓橋と題する陸放翁の詩だが、私は之を次のやうに訳して見た。

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七年《ななとせ》ぶりに来てみれば
まくらにかよふ楓橋の
むかしながらの寺の鐘
鐘のひびきの悽《かな》しくも
そそぐ泪はをしめかし
身は蜀に入る客にして
巴山はとほし千里の北
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 試にこれを人に見せたところ、その人の言ふには、なるほど訳詩は相当の出来栄えだが、しかし原詩を日本読みにした場合の特殊の味は出て居ない、とのことであつた。尤もな話だ。そして之はもちろん私の不才に因るのでもあらうが、しかし日本読みの漢文調または漢詩調より受ける吾々の感覚は、元来独特なもので、これに代はるべき表現は他にないのである。
 佐藤春夫の車塵集は五十首に近い漢詩の翻訳から成つてゐるが、その原詩が何れも女子の作品であり、謂はゆる風雲の気少く児女の情多きものであるのは、必ずしも偶然ではない。かうした種類のものは、漢字にたよらない日本語で表現することが、比較的に容易だからである。これと同じ理由で、維新当時の志士がその風雲の気を好んで漢詩に托したのも、やはり偶然ではない。彼等は漢字と漢詩調を借りなければ表現することの出来ない鬱勃たる気概を胸中に抱いて居たのである。近くは乃木大将の「征馬|前《すす》まず人語らず、金州城外斜陽に立つ」の詩にしても、その時の感情はかうした形式以外に適当な表現はなく、支那人が見て感心しようが、感心すまいが、そんなことは最初から少しも問題にならぬのである。
 日本人の描く油絵や水絵が、今日では、すでに洋画ではなく、日本画となつてゐると同じやうに、漢詩は既に久しい以前から日本の詩となつてゐる。これは漢字がすでに日本字になつてゐることと関聯するのである。
 今日吾々の用ひる漢字の発音は、元と支那から渡来したものに相違はないが、しかし現代の日本人は現代の支那人と全く違つた発音の系統を維持して居り、かかる発音をなすものとしては、日本の漢字は最早や日本だけの国字となつてゐる。そしてかかる日本流の漢字は、長い長い年数の間にすつかり日本人の言語の中に融け込み、深い深い根をおろしてしまつて、今日吾々の言語は、漢字の助けなしには理解され得ないほどのものになつて居るのである。例へば戦車だの飛行機だのと云つても、漢字を当てはめて見なければ意味が通ぜず、英語を嫌つて野球用語のピッチャーを投手、キャッチャ
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