仄の関係で仄字の瓦を避けたのだが、日本人が日本人に読んで貰ふつもりで書かれたものなら、ここなどは平仄の規則を破つて、吾々の耳に慣れた瓦全を用ふる方がよく、それに玉砕に対して瓦全といふ言葉はあるが、甎全などいふ成語はない筈でもある。
 同じく南洲の偶成七絶に、

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大聲呼酒坐高樓    大声酒を呼んで高楼に坐し、
豪氣將呑五大州    豪気将に呑まんとす五大州。
一寸丹心三尺劍    一寸の丹心、三尺の剣、
揮劍[#「揮劍」に白丸傍点]先試佞奸頭    剣を揮つて先づ試みん佞奸の頭。
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と云ふのがあり、之に対し、結句の揮剣は平仄が合はぬから、仄字の剣に代ふるに平字の刀を以てすべし、などと批評してゐる漢詩人があるは、私は甚だ不服である。これを日本読みにする場合、「一寸の丹心三尺の剣、剣を揮つて」と剣が続くからこそ、言葉の勢があるのであり、仮にその点を無視しても、ここは剣字を重ね用ひねば詩にならない。平仄が合つても合はなくても、そんなことを問題にする必要はない。私はさう考へるのである。
 ところで、そんな事を云ふのなら、初めから平仄など全然問題にしないがいいではないか、と云ふ人もあらうが、それはそれでもいいのだ。しかし一応平仄を合はせておけば、支那人が棒読みにして見ても、平仄が合つて居ないのより、何程か調子が好くなるであらうから、元来は支那人に読んで貰ふことを主眼としたものではなくとも、一応は平仄の規則を無視しない方がよからう。私はそれ位に考へてゐる。
 元来漢字は象形文字で、ローマ字や日本の仮名と全然文字の性格を異にして居り、音を耳に伝へることの外に、文字の形を眼で見て貰ふことを要求してゐる文字なのである。日、月、山、川等の文字を始め、半ば絵になつてゐる場合も少くなく、愁、悲、涙、泪などは、その偏《ヘン》に一々意味が含まれてゐる。で、日本人がこの漢字と絶縁すればともかく、之を日用文字としてゐる限り、紙に書いた場合に漢字の有つ特殊な味、その美しさなどから無感覚になる訳に行かず、従つてまた、微妙な感覚や美しさなどを尊ぶ詩にあつては、仮名混りでなしに漢字ばかり並べて見たいと云ふ要求が起らざるを得ないのである。(象形文字と音符文字と全く性格の異つた両様の文字を混用した日本文は、眼に映じる所が非常にきたない。私はこんなきたない文字は他になからうとさへ思つてゐる。)日本人の漢詩に対する要求の一半はそこから起つてゐる。
 私は以上の如く考へてゐるから、専門の漢詩人が見たら、まるで規則はづれで詩になつて居ない、と嗤ふであらうやうなもの、あるひは支那人に見せたなら、調子のひどく拙いものだ、と批評するであらうやうなものを、平気で作つて居るが、しかしそれと同時に、他方では、これを日本読みにする場合の読み方や調子などに、(これは支那人に全く分からぬことである、)頗る重きを置いて居るのである。
 眼で見たところは支那人の詩と同じやうに漢字ばかりで出来て居るが、その発音、その読み方は全然日本読みである。かういふのが日本人の作る、日本人の作り得る、また日本人が作つて見て意義のある、日本の漢詩である。それは野口米次郎が作つた英語の詩のやうな、外国の詩ではない。それは支那の詩ではなく、和歌俳句などと同じ範疇に属する日本の詩の一体である。一切はそこを標準としなければならぬ、そこを標準とすることによつて、初めて昭和の日本人が漢詩を作ると云ふことに意義が見出されるのである。
 以上は私の我流の見解である。誰もこんなことを言つたのを、今まで見たことがない。しかし私はこの我流に相当の自信を有つてゐる。言ひ足らぬことは、項を改めて更に補足するであらう。

                ○

 小杉放庵の『唐詩及唐詩人』には、次のやうなことが書いてある。
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「友人の話だが、明治の初年支那通の岸田吟香が、あちらで知り会ひの文人達と、日本の詩について話をした折の思ひ付きで、梁川星巌その他日本での有名な詩人の作共の中に、あちらの無名人の作を加へて、わざと作者の名を除いて、試に彼らに見せたところ、みな其の無名人の分を採つた。そこで吟香が、かゝる内容貧弱な詩の何処がよろしいのかと訊ねた。彼等の答は一様に、無名人の分はともかく吟誦に耐へる、星巌等のは成るほど意味は面白からうが、何分下品な調子で賛成できぬと云ふ理由であつた。(中略)韻字平仄は、この吟誦を音楽的ならしむ可く備はつてゐる規則だ。恐らく日本の漢詩人は、本場の作家よりも此の規則をやかましく云つたらうが、原音四声の心得があちらの子供ほどにも行かぬ故、畢竟徒労だ、生れると直ぐに耳についてゐる原音、之は学問では推し切れない、漢字を五字づつ或は七字づつ行列させて、先づ普
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