ーを捕手などと云つて見たところで、やはり漢字を当てはめてみなければ意味は通じないのである。
漢字が長い年数をかけてこんなにまで日本人の生活に喰ひ入つたことの好し悪しは、別問題である。それは日本の言語の発達のため、あるひは不幸な出来事であつたのかも知れない。しかし日本人が善かれ悪かれかうした漢字を日用の文字として用ひてゐる限りは、その漢字を五字づつ並べたり七字づつ並べたりして、謂はゆる漢詩なるものを作るのは、放庵の言ふやうに何にもならぬ話ではない。ただ吾々は、それが日本の詩であることを自覚して、支那人の作詩法とは違つた独自の法則を、自律的に工夫する必要があるだけのことである。
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(追記)「夜半の鐘声」については、別に『陸放翁鑑賞』の中で悉しく書いておいた。ただそこでは王漁洋の次の詩のことを書き漏らしたと思ふから、ここに之を書き写しておく。
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日暮東塘正落潮、孤篷泊處雨蕭蕭、疎鐘夜火寒山寺、記過呉楓第幾橋、楓葉蕭條水驛空、離居千里恨難囘、十年舊約江南夢、獨聽寒山夜半鐘
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王漁洋も寒山寺の夜半の鐘声を聞いたのである。
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[#地から1字上げ](昭和十六年十一月十一日清書)
○
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山前山後是青草 山前山後是れ青草、
盡日出門還掩門 尽日門を出でてまた門を掩ふ。
毎思骨肉在天畔 骨肉の天畔に在るを思ふ毎に、
來看野翁憐子孫 来りて見る[#「見る」はママ]野翁の子孫を憐むを。
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これは北郭の閑思と題する曹※[#「業+おおざと」、第3水準1−92−83]《ソウゲフ》(晩唐)の詩である。彼は桂州の人で、洋州刺史となつたと伝へられて居るが、桂州も洋州もどこに当るのか、私には今分からない。(後になつて調べて見ると、桂州は今の広西省桂林県、洋州は今の陝西省洋県であつた。)ただこの詩は、恐らく作者の郷里を遠く離れた任地での作であらう、と思ふだけのことである。北郭といふのは、多分その任地の山城のことであり、山前山後是れ青草と云ふのは、その城郭のある山の前後が、みな野原か田畑になつて居たのであらう。門といふのは、山城の門である。その門を一日中出たり入つたりしてゐる。何のために、そんなに出たり入つたりするのか? 城にゐて気の紛れる為事がないと、遠く天涯にゐる肉親のことが思ひ出されてならぬ、すると、ついふら/\と門を出て、村の老人たちが子や孫を可愛がつてゐる様子を見て来るのだ。――かういふのが此の詩の意味であらう。
私たちの手許に一年間預かつてゐた幼けない孫が、迎ひに来た母と姉と一緒に、今日は愈※[#二の字点、1−2−22]上海に向けて立つ。これから私も何遍となく「骨肉の天畔に在るを思ふ」の日があるであらうが、年を取つてゐる私には、「来りて見る野翁の子孫を憐むを」といふ句が、如何にも痛切に感じられる。私は老母とも遠く離れて生活してゐるが、老親を思ふの情と穉孫を愛するの情とは、おのづから別である。私はこの詩の結句を見て、当時作者は孫かさもなくば年少の子を有つて居たのに相違あるまいと思ふ。門を出でて野翁の子孫を憐む(愛撫する)を見ると云ふことは、自ら子孫を愛撫した経験のある人でなければ成し得ない句である。
[#地から1字上げ](昭和十六年十一月十四日稿)
底本:「河上肇全集 21」岩波書店
1984(昭和59)年2月24日発行
初出:「河上肇著作集第9巻」筑摩書房
1964(昭和39)年12月15日
※底本の本文は、京都府立総合資料館蔵の自筆原稿によっています。
※漢詩の白文に旧字を用いる扱いは、底本通りです。
※〔〕書きされた部分は編集部が付したものです。本文内の〔〕は脱字を補ったもの、注記された〔〕は誤りを正したものです。
入力:はまなかひとし
校正:林 幸雄
2008年9月27日作成
2009年12月24日修正
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