これを「何《いつ》か当《まさ》に共に西※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]の燭を剪《き》りて、却《かへつ》て巴山夜雨の時を話《かた》るべき」と読む。(陳延傑の『陸放翁詩鈔注』には放翁の詩「何当出清詩、千古続遺唱」に註して、「何当、何時也、李商隠詩、何当共剪西窓燭」としてある。もし之に従へば何当をいつかと読ますことにならう。)文庫本には「巴山夜雨の時を話るべきか[#「か」に白丸傍点]」と読ましてあるが、何《いつ》か[#「か」に白丸傍点]当に云々と続いて居るのだから、「話るべきか[#「か」に白丸傍点]」の「か」は蛇足であり、この蛇足のために調子はひどく崩れる。簡野道明本には、これを「何《いつ》か当に共に西※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]の燭を剪りて、却つて巴山夜雨を話《ワ》する時なるべき[#「時なるべき」に白丸傍点]」と読ませ、「坊本に巴山夜雨の時を話すと訓読するは非なり。何時の二字を分けて、転結二句の上と下とへ置いたのである。」と註してあるが、私は之に従ふことを欲しない。しとしとと雨ふる秋の夜、細君から来た手紙を手にして巴山に対した其の時[#「其の時」に白丸傍点]の感じ、それを互に手を取つて話し合ふことの出来るのは、何時《いつ》の頃のことであらうぞ、と感歎したのであるから、私は敢て「巴山夜雨の時を[#「の時を」に白丸傍点]話《かた》るべき」と読みたく思ふのである。
「共に云々」と云ふのは、細君と手を取つての意。共に西※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]の燭を剪りてなどいふ言葉は、極めて親しき間柄を示し、あかの他人を指したものとは思はれない。「却て云々」と云ふは、身は長安に帰りながら心は遠く巴蜀の地に馳せての意。いづれも只だ調子のために置かれただけのものではない。
なほ巴山夜雨の四字は、同じ字が第二句と第四句とに重ね用ひられてゐるが、これは必然の重複であり、かかる重複によつて、今の情景を将来再びまざまざと想ひいだすであらうことが示唆されて居るのであり、おのづからまた、当時作者は西※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]に燭を剪つて此の詩を賦したであらうことが想像される訳でもある。
私は以上の如く解釈することによつて、今も尚ほ、この詩は稀に見るいい絶句だと思つてゐる。
小杉放庵の『唐詩及唐詩人』は、李商隠の詩四首を採録し居れども、遂にこの詩を採らず。
○
漢詩を日本読みにする場合、送り仮名の当不当は、往々にして死活の問題となる。例へば、唐詩選の岩波文庫本には、岑参の詩を、
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東去長安萬里餘 東のかた長安を去る万里余り
故人那惜一行書 故人那ぞ惜まん[#「惜まん」に白丸傍点]一行の書。
玉關西望腸堪斷 玉関西望すれば腸断ゆるに堪へたり
況復明朝是歳除 況や復た明朝是れ歳除なるをや。
[#ここで字下げ終わり]
と読ましてあるが、この詩の第二句は「故人那ぞ惜まん[#「惜まん」に白丸傍点]」ではなく、「故人那ぞ惜むや[#「惜むや」に白丸傍点]」である。「惜むや」を「惜まん」と読むだけで、ここでは全体の意味が全く駄目になる。岑参のこの詩は「玉関にて長安の李主簿に寄す」と題せるもので、詩中に故人と云へるは即ち李主簿のことであり、この友人から一向に手紙が来ないために、「故人那ぞ一行の書をすら惜むや」と訴へたのである。
絶句の第二句は承句と称されてゐるやうに、起句を承けたものであるから、絶句を日本読みにする際には、多くの場合、第一句は之を読み切りにしない方がよい。例へば、前に掲げた孟浩然の詩、
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移舟泊烟渚 舟を移して烟渚に泊せば[#「泊せば」に白丸傍点]、
日暮客愁新 日暮れて客愁新たなり。
野曠天低樹 野曠うして天《そら》樹に低《た》れ、
江清月近人 江清うして月人に近し。
[#ここで字下げ終わり]
にしても、既に書いておいたやうに、小杉放庵の『唐詩及唐詩人』には、起句を「舟を移して烟渚に泊す[#「泊す」に白丸傍点]」と読み切つてゐるが、私は「烟渚に泊せば[#「せば」に白丸傍点]」と次の句へ読み続けた方がいいと思ふのである。
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舟を移して烟渚に泊す
日暮れて客愁新たなり
[#ここで字下げ終わり]
と云ふのと、
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舟を移して烟渚に泊せば
日暮れて客愁新たなり
[#ここで字下げ終わり]
と云ふのとでは、ちよつとしたことだけれども、私は感じが非常に違ふと思ふ。
やはり前に掲げた同じく孟浩然の詩、
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君登青雲去 君は青雲に登りて去り[#「去り」に白丸傍点]、
余望青山歸
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