場合の調子に重きを置くべきであると考へてゐる私は、(この種の考については、いづれ項を別にして述べる、)総じて漢詩の日本流の読み方について色々な注文を有つ。次に思ひ付くままを少し述べて見よう。
漆山又四郎訳註の唐詩選(岩波文庫本)には、李白の越中懐古を、次の如く読ませてある。
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越王勾踐破呉歸 越王勾践 呉を破りて帰る
義士還家盡錦衣 義士家に還りて尽く錦衣なり[#「なり」に白丸傍点]。
宮女如花滿春殿 宮女は[#「は」に白丸傍点]花の如く春《はる》殿《デン》に満つ[#「満つ」に白丸傍点]
只今惟有鷓鴣飛 只今惟鷓鴣の飛ぶ有るのみ[#「有るのみ」に白丸傍点]。
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私はかうした句読の切り方にも賛成せず、それに何よりも全体の調子がひどく拙いと思ふ。「義士家に還りて尽く錦衣なり[#「なり」に白丸傍点]、」私はこんな文章を好まない。「宮女は[#「は」に白丸傍点]花の如く云々、」何故、前の句では「義士は」と読まずに、この句だけ「宮女は」と読ませたのであらう。「錦衣なり」「春殿に満つ」と現在に読むのもいけない。また春《はる》殿《デン》に満つは間違であらう。ここの春《はる》殿《デン》は、論語に「暮春には春服既に成り云々」とある場合などと同じく、春は殿の形容詞である。春満殿となつて居るのではないから、強ひて満春殿を「春殿《はるデン》に満つ」などと読ます必要は絶対にない。「惟鷓鴣の飛ぶ有るのみ[#「のみ」に白丸傍点]」も、私はその調子を好まない。私は全体の詩を次のやうに読む。
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越王勾践、呉を破りて帰るや、
義士家に還りて尽く錦衣、
宮女花の如く春殿《シュンデン》に満ちしかど、
只今惟だ鷓鴣の飛ぶ有り。
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平野秀吉著唐詩選全釈および簡野道明著唐詩選詳説には、第二句を「義士家に還りて尽く錦衣す」と読ましてあるが、ここは普通の場合と違ひ、呼吸が第二句から第三句へ一気に続いて居るのだから、錦衣なりとか錦衣すと云ふやうな悪調子を避け、ただ錦衣と名詞のままで打ち留め、更に第三句を「春殿に満ちしかど」と過去形に読ませ、その過去形へ第二句をも持たせ掛くべきであり、かくして始めて全体の詩の意味が日本文として通じ易くなり、調子もその方が却て好くなるのである。
○
同じく唐詩選にある李商隠の夜雨寄北と題する詩は、岩波文庫本では次のやうに読ませてあるが、私はこの読み方にも服しかねる。
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君問歸期未有期 君に[#「に」に白丸傍点]に帰期を問ふに[#「問ふに」に白丸傍点]未だ期あらず
巴山夜雨漲秋池 巴山の夜雨秋池に漲る。
何當共翦西※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]燭 何《いつ》か当に共に西※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]の燭を剪り
卻話巴山夜雨時 却つて巴山夜雨の時を話《かた》るべきか[#「か」に白丸傍点]。
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私は嘗て未決監に居た時この詩を読んで、実にいい詩だと感じたことがある。しかし私は起句を「君に[#「に」に白丸傍点]帰期を問ふに[#「問ふに」に白丸傍点]」などと読まず、「君は[#「は」に白丸傍点]帰期を問へども[#「問へども」に白丸傍点]」と読む。文庫本には、「北は北地に在る者の意、君は北地に在る者を指す」と註してあるが、それはそれに相違ないけれども、私はもつと具体的に、ここの君は細君のことだと解する。北は長安を指すものに相違ない。当時作者は任に巴蜀の地に赴き、細君は長安に留守居してゐたのであり、その細君から、いつ頃帰るかといふ、夫の帰りを待ち侘びた手紙が来たのである。それに対して「君は帰期を問へども未だ期あらず」と云つたので、それを「君に帰期を問ふに未だ期あらず」などと読んでは、全く駄目になる。原文も君問となつてをり、問君としてあるのではないから、何も強ひて君に問ふと読む必要はないのである。
「君は帰期を問へども未だ期あらず。」私は未決監でこの句を読んで、実に身に染む思ひがした。未だ期あらずと云ふことは、実にあはれ深いことなのである。
ところで、細君からの手紙を見て、そぞろにあはれを感じた時は、丁度秋の夜で、しかも雨がしとしとと降つて居たのである。※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]を開けば巴山は雨に隠れ、軒前の池には盛んに水が溢れてゐる。作者は此の景に対し此の時の情を実に忘れ難きものに感じた。そこで何当共剪西※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]燭却話巴山夜雨時と詠じたのであり、かく解してこそ、これらの句が実に生き生きとしたものになつて来るのである。私は
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