彼は父がこれほど怒ったのを見たことがなかった。父は煙草をそこまで持ってゆくと、急に思いかえして、そのまま畳の上に投げ捨ててしまった。
 ややしばらくしてから父はきわめて落ち着いた物腰でさとすように、
「それほど父に向かって理屈が言いたければ、立派に一人前の仕事をして、立派に一人前の生活ができたうえで言うがいい。何一つようし得ないで物を言ってみたところが、それは得手勝手というものだぞ……聞いていればお前はさっきから俺《わ》しのすることを嘘だ嘘だと言いののしっとるが、お前は本当のことを何処《どこ》でしたことがあるかい。人と生まれた以上、こういう娑婆《しゃば》にいればいやでも嘘をせにゃならんのは人間の約束事なのだ。嘘の中でもできるだけ嘘をせんようにと心がけるのが徳というものなのだ。それともお前は俺《わ》しの眼の前に嘘をせんでいい世の中を作ってみせてくれるか。そしたら俺《わ》しもお前に未練なく兜《かぶと》を脱ぐがな」
 父のこの言葉ははっしと彼の心の真唯中《まっただなか》を割って過ぎた。実際彼は刃のようなひやっとしたものを肉体のどこかに感じたように思った。そして凝り上がるほど肩をそびやかして興
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