風で挨拶一つすると立ち上がった。彼と監督とは事務所のほうまで矢部を送って出たが、監督が急がしく靴をはこうとしているのを見ると、矢部は押しかえすような手つきをして、
「早田君、君が送ってくれては困る。荷物は誰かに運ばせてください。それでなくてさえ且那はお互いの間を妙にからんで疑っておいでになるのだ。しかし君のことはよくお話ししておいたから……万事が落着するまでは君は私から遠退《とおの》いているようにしてくれたまえ。送って来ちゃいけませんよ」
それから矢部は彼の方に何か言いかけようとしたが、彼に対してさえ不快を感じたらしく、監督の方に向いて、
「六年間|只奉公《ただぼうこう》してあげくの果《は》てに痛くもない腹を探られたのは全くお初《は》つだよ。私も今夜という今夜は、慾もへちまもなく腹を立てちゃった。じゃこちらがすっかりかたずいたうえで、札幌にも出ておいでなさい。その節万事私のほうのかたはつけますから。御免」
「御免」という挨拶だけを彼に残して、矢部は星だけがきらきら輝いた真暗なおもてへ駈《か》け出すように出て行ってしまった。彼はそこに立ったまま、こんな結果になった前後の事情を想像しなが
前へ
次へ
全45ページ中33ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング