ら遠ざかってゆく靴音を聞き送っていた。
 その晩父は、東京を発《た》った時以来何処に忘れて来たかと思うような笑い顔を取りもどして晩酌を傾けた。そこに行くとあまり融通のきかない監督では物足らない風で、彼を対手《あいて》に話を拡げて行こうとしたが、彼は父に対する胸いっぱいの反感で見向きもしたくなかった。それでも父は気に障《さ》えなかった。そしてしかたなしに監督に向きなおって、その父に当たる人の在世当時の思い出話などをして一人|興《きょう》がった。
「元気のいい老人だったよ、どうも。酔うといつでも大肌《おおはだ》ぬぎになって、すわったままひとり角力《ずもう》を取って見せたものだったが、どうした癖か、唇を締めておいて、ぷっぷっと唾《つばき》を霧のように吹き出すのには閉口した」
 そんなことをおおげさに言いだして父は高笑いをした。監督も懐旧の情を催すらしく、人のいい微笑を口のはたに浮かべて、
「ほんとにそうでした」
 と気のなさそうな合槌《あいづち》を打っていた。
 そのうちに夜はいいかげん更《ふ》けてしまった。監督が膳を引いてしまうと、気まずい二人が残った。しかし父のほうは少しも気まずそうには
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