かった。いつもならば頭を枕につけるが早いかすぐ鼾《いびき》になる人が、いつまでも静かにしていて、しげしげと厠に立った。その晩は彼にも寝つかれない晩だった。そして父が眠るまでは自分も眠るまいと心に定めていた。
 二時を過ぎて三時に近いと思われるころ、父の寝床のほうからかすかな鼾が漏れ始めた。彼はそれを聞きすましてそっと厠に立った。縁板が蹠《あしうら》に吸いつくかと思われるように寒い晩になっていた。高い腰の上は透明なガラス張りになっている雨戸から空をすかして見ると、ちょっと指先に触れただけでガラス板が音をたてて壊《こわ》れ落ちそうに冴《さ》え切っていた。
 将来の仕事も生活もどうなってゆくかわからないような彼は、この冴えに冴えた秋の夜の底にひたりながら、言いようのない孤独に攻めつけられてしまった。
 物音に驚いて眼をさました時には、父はもう隣の部屋で茶を啜《すす》っているらしかった。その朝も晴れ切った朝だった。彼が起き上がって縁に出ると、それを窺《うかが》っていたように内儀《おかみ》さんが出て来て、忙しくぐるりの雨戸を開け放った。新鮮な朝の空気と共に、田園に特有な生き生きとした匂いが部屋じ
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