ゆくもんでもない。……しかし今夜は御苦労だった。行く前にもう一言お前に言っておくが」
 そういう発端で明日矢部と会見するに当たっての監督としての位置と仕事とを父は注意し始めた。それは懇《ねんご》ろというよりもしちくどいほど長かった。監督はまた半時間ぐらい、黙ったまま父の言いつけを聞かねばならなかった。
 監督が丁寧に一礼して部屋を引き下がると、一種の気まずさをもって父と彼とは向かい合った。興奮のために父の頬は老年に似ず薄紅くなって、長旅の疲れらしいものは何処《どこ》にも見えなかった。しかしそれだといって少しも快活ではなかった。自分の後継者であるべきものに対してなんとなく心置きのあるような風を見せて、たとえば懲《こら》しめのためにひどい小言を与えたあとのような気まずい沈黙を送ってよこした。まともに彼の顔を見ようとはしなかった。こうなると彼はもう手も足も出なかった。こちらから快活に持ちかけて、冗談話か何かで先方の気分をやわらがせるというようなタクトは彼には微塵《みじん》もなかった。親しい間のものが気まずくなったほど気まずいものはない。彼はほとんど悒鬱《ゆううつ》といってもいいような不愉快な
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