の上に個性の座位を造ろうとする虚《うつ》ろな企てには厭《あ》き果てたのだ。それは科学者がその経験物を取り扱う態度を直ちに生命にあてはめようとする愚かな無駄な企てではないか。科学者と実験との間には明かに主客の関係がある。然し私と私の個性との間には寸分の間隙《かんげき》も上下もあってはならぬ。凡ての対立は私にあって消え去らなければならぬ。
未来についても私は同じ事が言い得ると思う。私を除いて私の未来(といわず未来の全体)を完成し得るものはない。未来の成行きを考える場合、私という一人の人間を度外視しては、未来の相は成り立たない。これは少しも高慢な言葉ではない。その未来を築き上げるものは私の現在だ。私の現在が失われているならば、私の未来は生れ出て来ない。私の現在が最上に生きられるなら、私の未来は最上に成り立つ。眼前の緊張からゆるんで、単に未来を空想することが何で未来の創造に塵《ちり》ほどの益にもなり得よう。未来を考えないまでに現在に力を集めた時、よき未来は刻々にして創《つく》り出されているのではないか。
センティメンタリストの痛ましくも甘い涙は私にはない。ロマンティシストの快く華やかな想像も私にはない。凡ての欠陥と凡ての醜さとを持ちながらも、この現在は私に取っていかに親しみ深くいかに尊いものだろう。そこにある強い充実の味と人間らしさとは私を牽《ひ》きつけるに十分である。この饗応《きょうおう》は私を存分に飽き足らせる。
一〇
然《しか》しながら個性の完全な飽満と緊張とは如何《いか》に得がたきものであるよ。燃焼の生活とか白熱の生命とかいう言葉は紙と筆とをもってこそ表わし得ようけれども、私の実際の生活の上には容易に来てくれることがない。然し私にも全くないことではなかった。私はその境界《きょうがい》がいかに尊く難有《ありがた》きものであるかを幽《かす》かながらも窺《うかが》うことが出来た。そしてその醍醐味《だいごみ》の前後にはその境に到り得ない生活の連続がある。その関係を私はこれから朧《おぼ》ろげにでも書き留めておこう。
外界との接触から自由であることの出来ない私の個性は、縦令《たとい》自主的な生活を導きつつあっても、常に外界に対し何等かの角度を保ってその存在を持続しなければならない。或る時は私は外界の刺戟《しげき》をそのままに受け入れて、反省もなく生活している。或る時は外界の刺戟に対して反射的に意識を動かして生活している。又或る時は外界の刺戟を待たずに、私の生命が或る已むなき内的の力に動かされて外界に働きかける。かかる変化はただ私の生命の緊張度の強弱によって結果される。これは智的活動、情的活動、意志的活動というように、生命を分解して生活の状態を現わしたものではない。人間の個性の働きを言い現わす場合にかかる分解法によるのは私の最も忌むところである。人間の生命的過程に智情意というような区別は実は存在していないのだ。生命が或る対象に対して変化なく働き続ける場合を意志と呼び、対象を変じ、若しくは力の量を変化して生命が働きかける場合を情といい、生命が二つ以上の対象について選択をなす場合を智と名づけたに過ぎないのだ。人の心的活動は三頭政治の支配を受けているのではない。もっと純一な統合的な力によって総轄されているのだ。だから少し綿密な観察者は、智と情との間に、情と意志との間に、又意志と智との間に、判然とはその何れにも従わせることの出来ない幾多の心的活動を発見するだろう。虹彩《こうさい》を検する時、赤と青と黄との間に無限数の間色を発見するのと同一だ。赤青黄は元来白によって統一さるべき仮象であるからである。かくて私達が太陽の光線そのものを見窮《みきわ》めようとする時、分解された諸色をいかに研究しても、それから光線そのものの特質の全体を知悉《ちしつ》することが出来ぬと同様に、智情意の現象を如何に科学的に探究しても、心的活動そのものを掴《つか》むことは思いもよらない。帰納法は記述にのみ役立つ。然し本体の表現には役立たない。この簡単な原理は屡※[#二の字点、1−2−22]閑却される。科学に、従って科学的研究に絶大の価値をおこうとする現代にあっては、帰納法の根本的欠陥は往々無反省に閑却される。
さて私は岐路に迷い込もうとしたようだ。私は再び私の当面の問題に帰って行こう。
外界の刺戟をそのまま受け入れる生活を仮りに習性的生活(habitual life)と呼ぶ。それは石の生活と同様の生活だ。石は外界の刺戟なしには永久に一所《ひとところ》にあって、永い間の中にただ滅して行く。石の方から外界に対して働きかける場合は絶無だ。私には下等動物といわれるものに通有な性質が残っているように、無機物の生活さえが膠着《こうちゃく》していると見える。それは
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