人の生活が最も緩慢となるところには何時《いつ》でも現われる現象だ。私達の祖先が経験し尽した事柄が、更に繰り返されるに当っては、私達はもう自分の能力を意識的に働かす必要はなくなる。かかる物事に対する生活活動は単に習性という形でのみ私達に残される。
 チェスタートンが、「いかなる革命家でも家常|茶飯事《さはんじ》については、少しも革命家らしくなく、尋常人と異らない尋常なことをしている」といったのはまことだ。革命家でもない私にはかかる生活の態度が私の活動の大きな部分を占めている。毎朝私は顔を洗う。そして顔を洗う器具に変化がなければ、何等の反省もなく同じ方法で顔を洗う。若し不注意の為《た》めにその方法を誤るようなことでもあれば、却ってそれを不愉快の種にする位だ。この生活に於ては全く過去の支配の下にある。私の個性の意識は少しもそこに働いていない。
 私はかかる生活を無益だというのではない。かかる生活を有するが為めに私の日常生活はどれ程|煩雑《はんざつ》な葛藤から救われているか知れない。この緩慢な生活が一面に成り立つことによって、私達は他面に、必要な方面、緊張した生活の欲求を感じ、それを達成することが出来る。
 然しかかる生活は私の個性からいうと、個性の中に属させたらいいものかわるいものかが疑われる。何故ならば、私の個性は厳密に現在に執着しようとし、かかる生活は過去の集積が私の個性とは連絡なく私にあって働いているというに過ぎないから。その上かかる生活の内容は甚だ不安定な状態にある。外界の事情が聊《いささ》かでも変れば、もうそこにはこの生活は成り立たない。そして私がこれからいおうとする智的生活の圏内に這入《はい》ってしまう。私は安んじてこの生活に倚《よ》りかかっていることが出来ない。
 又本能として自己の表現を欲求する個性は、習性的生活にのみ依頼して生存するに堪《た》えない。単なる過去の繰り返しによって満足していることが出来ない。何故なら、そこには自己がなくしてただ習性があるばかりだから、外界と自己との間には無機的な因縁《いんねん》があるばかりだから。私は石から、せめては草木なり鳥獣になり進んで行きたいと希《ねが》う。この欲求の緊張は私を駆って更に異った生活の相を選ばしめる。

        一一

 それを名づけて私は智的生活(intellectual life)とする。
 この種の生活に於て、私の個性は始めて独立の存在を明かにし、外界との対立を成就する。それは反射の生活である。外界が個性に対して働きかけた時、個性はこれに対して意識的の反応をする。即《すなわ》ち経験と反省とが、私の生活の上に表われて来る。これまで外界に征服されて甘んじていた個性はその独自性を発揮して、外界を相手取って挑戦する。習性的生活に於《おい》て私は無元の世界にいた。智的生活に於て私は始めて二元の生活に入る。ここには私がいる。かしこには外界がある。外界は私に攻め寄せて来る。私は経験という形式によって外界と衝突する。そしてこの経験の戦場から反省という結果が生れ出て来る。それは或る時には勝利で、或る時には敗北であるであろう。
 その何れにせよ、反省は経験の結果を似寄りの部門に選び分ける。かく類別せられた経験の堆積《たいせき》を人々は知識と名づける。知識を整理する為めに私は信憑《しんぴょう》すべき一定の法則を造る。かく知識の堆積の上に建て上げられた法則を人々は道徳と名づける。
 道徳は対人的なものだという見解は一応道理ではあるけれども、私はそうは思わない。孤島に上陸したばかりの孤独なロビンソン・クルーソーにも自己に対しての道徳はあったと思う。何等の意味に於てであれ、外界の刺戟《しげき》に対して自己をよりよくして行こうという動向は道徳とはいえないだろうか。クルーソーが彼の為めに難破船まで什器《じゅうき》食料を求めに行ったのは、彼自身に取っての道徳ではなかったろうか。然《しか》しクルーソーはやがてフライデーを殺人者から救い出した。クルーソーとフライデーとは最上の関係に於て生きることを互に要求した。クルーソーは自己に対する道徳とフライデーに対する道徳との間に分譲点を見出さねばならなかった。フライデーも同じ努力をクルーソーに対してなした。この二人の努力は幸に一致点を見出した。かくて二人は孤島にあって、美しい間柄で日を過したのみならず、遂に船に救われて英国の土を踏むことが出来た。フライデーが来てからは、その孤島には対人的道徳即ち社会道徳が出来たけれども、クルーソー一人の時には、そこに一の道徳も存在しなかったと云おうとするのは、思い誤りでありはしまいか。道徳とは自己と外界(それが自然であろうと人間であろうと)との知識に基《もとい》する正しい自己の立場の決定である。だから、道徳は一人の
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