のに対して憧憬《どうけい》を繋ぐ。既に現われ出たもの、今現われつつあるものは、凡て醜く歪《ゆが》んでいる。やむ時なき人の欲求を満たし得るものは現われ出ないものの中にのみ潜んでいなければならない。そういう見方によって生きる人はロマンティシストだ。
更に又或る人は現在に最上の価値をおく。既に現われ終ったものはどれほど優《すぐ》れたものであろうとも、それを現在にも未来にも再現することは出来ない。未来にいかなるよいものが隠されてあろうとも、それは今私達の手の中にはない。現在には過去に在るような美しいものはないかも知れない。又未来に夢見られるような輝かしいものはないかも知れない。然しここには具体的に把持さるべき私達自身の生活がある。全力を尽してそれを活《い》きよう。そういう見方によって生きる人はリアリストだ。
第一の人は伝説に、第二の人は理想に、第三の人は人間に。
この私の三つのイズムに対する見方は誤っていないだろうか。若し誤っていないなら、私はリアリストの群れに属する者だといわなければならぬ。何故といえば、私は今私自身の外に依頼すべき何者をも持たないから。そしてこの私なるものは現在にその存在を持っているのだから。
私にも私の過去と未来とはある。然し私が一番頼らねばならぬ私は、過去と未来とに挾《はさ》まれたこの私だ。現在のこの瞬間の私だ。私は私の過去や未来を蔑《ないがし》ろにするものではない。縦令《たとい》蔑ろにしたところが、実際に於て過去は私の中に滲《し》み透り、未来は私の現在を未知の世界に導いて行く。それをどうすることも出来ない。唯《ただ》私は、過去未来によって私の現在を見ようとはせずに、現在の私の中に過去と未来とを摂取しようとするものだ。私の現在が、私の過去であり、同時に未来であらせようとするものだ。即ち過去に対しては感情の自由を獲得し、未来に対しては意志の自由を主張し、現在の中にのみ必然の規範を立しようとするものだ。
何故お前はその立場に立つのだと問われるなら、そうするのが私の資質に適するからだという外には何等の理由もない。
私には生命に対する生命自身の把握という事が一番尊く思われる。即ち生命の緊張が一番好ましいものに思われる。そして生命の緊張はいつでも過去と未来とを現在に引きよせるではないか。その時伝説によって私は判断されずに、私が伝説を判断する。又私の理想は近々と現在の私に這入《はい》りこんで来て、このままの私の中にそれを実現しようとする。かくて私は現在の中に三つのイズムを統合する。委《くわ》しくいうと、そこにはもう、三つのイズムはなくして私のみがある。こうした個性の状態を私は一番私に親しいものと思わずにいられないのだ。
私の現在はそれがある如くある外はない。それは他の人の眼から見ていかに不完全な、そして汚点だらけのものであろうとも、又私が時間的に一歩その境から踏み出して、過去として反省する時、それがいかに物足らないものであろうとも、現在に生きる私に取っては、その現在の私は、それがあるようにしかあり得ない。善くとも悪くともその外にはあり得ないのだ。私に取っては、私の現在はいつでも最大無限の価値を持っている。私にはそれに代うべき他の何物もない。私の存在の確実な承認は各※[#二の字点、1−2−22]の現在に於てのみ与えられる。
だから私に取っては現在を唯一の宝玉として尊重し、それを最上に生き行く外に残された道はない。私はそこに背水の陣を布《し》いてしまったのだ。
といって、私は如何にして過去の凡てを蔑視《べっし》し、未来の凡てを無視することが出来よう。私の現在は私の魂にまつわりついた過去の凡てではないか。そこには私の親もいる。私の祖先もいる。その人達の仕事の全量がある。その人々や仕事を取り囲んでいた大きな世界もある。或る時にはその上を日も照し雨も潤した。或る時は天界を果《はて》から果まで遊行する彗星《すいせい》が、その稀《ま》れなる光を投げた。或る時は地球の地軸が角度を変えた。それらの有らゆる力はその力の凡てを集めて私の中に積み重っているのではないか。私はどうしてそれを蔑視することが出来よう。私は仮りにその力を忘れていようとも、その力は瞬転の間も私を忘れることはない。ただ私はそれらのものを私の現在から遊離して考えるのを全く無益徒労のことと思うだけだ。それらのものは厳密に私の現在に織りこまれることによってのみその価値を有し得るということに気が付いたのだ。畢竟《ひっきょう》現在の中に摂取し尽された過去は、人が仮りにそれを過去という言葉で呼ぼうとも、私にとっては現在の外の何物でもない。現在というものの本体をここまで持って来なければ、その内容は全く成り立たない。
私は遊離した状態に在る過去を現在と対立させて、その比較
前へ
次へ
全44ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング