ない。又表面的な進歩ばかりをめやすにしている社会には不便を起すことがあるかも知れない。然しお前はそれを気にするには及ばない。私は明かに知っている。人間生活の本当の要求は無事ということでもなく、表面だけの進歩ということでもないことを。その本当の要求は、一箇の人間の要求と同じく生長であることを。だからお前は安んじて、確信をもって、お前の道を選べばいいのだ。精神と物質とを、個性と仕事とを互に切り放した文明がどれ程進歩しようとも、それは無限の沙漠《さばく》に流れこむ一条の河に過ぎない。それはいつか細って枯れはててしまう。
私はこれ以上をもうお前にいうまい。私は老婆親切の饒舌《じょうぜつ》の為めに既に余りに疲れた。然しお前は少し動かされたようだな。選ぶべき道に迷い果てたお前の眼には、故郷を望み得たような光が私に対して浮んでいる。憐れな偽善者よ。強さとの平均から常に破れて、或る時は稍※[#二の字点、1−2−22]《やや》強く、或る時は強さを羨《うらや》む外にない弱さに陥る偽善者よ。お前の強さと弱さとが平均していないのはまだしもの幸だった。お前は多分そこから救い出されるだろう。その不平均の撞着《どうちゃく》の間から僅《わず》かばかりなりともお前の誠実を拾い出すだろう。その誠実を取り逃すな。若しそれが純であるならば、誠実は微量であっても事足りる。本当をいうと不純な誠実というものはない。又量定さるべき誠実というものはない。誠実がある。そこには純粋と凡てとがあるのだ。だからお前は誠実を見出《みいだ》したところに勇み立つがいい、恐れることはない。
起て。そこにお前の眼の前には新たな視野が開けるだろう。それをお前は私に代って言い現わすがいい。
お前は私にこの長い言葉を無駄に云わせてはならない。私は暖かい手を拡げて、お前の来るのを待っているぞよ。
私の個性は私にかく告げてしずかに口をつぐんだ。
八
私の個性は少しばかりではあるが、私に誠実を許してくれた。然し誠実とはそんなものでいいのだろうか。私は八方|摸索《もさく》の結果、すがり附くべき一茎の藁《わら》をも見出し得ないで、已《や》むことなく覚束《おぼつか》ない私の個性――それは私自身にすら他の人のそれに比して、少しも優れたところのない――に最後の隠家《かくれが》を求めたに過ぎない。それを誠実といっていいのだろうか。けれども名前はどうでもいい。或る人は私の最後の到達を私の卑屈がさせた業《わざ》だというだろう。或る人は又私の勇気がさせた業だというかも知れない。ただ私自身にいわせるなら、それは必至な或る力が私をそこまで連れて来たという外はない。誰でもが、この同じ必至の力に促されていつか一度はその人自身に帰って行くのだ。少くとも死が間近かに彼に近づく時には必ずその力が来るに相違ない。一人として早晩個性との遭遇を避け得るものはない。私もまた人間の一人として、人間並みにこの時個性と顔を見合わしたに過ぎない。或る人よりは少し早く、そして或る人よりは甚《はなは》だおそく。
これは少くとも私に取っては何よりもいいことだった。私は長い間の無益な動乱の後に始めて些《いささ》かの安定を自分の衷《うち》に見出した。ここは居心がいい。仕事を始めるに当って、先《ま》ず坐り心地のいい一脚の椅子を得たように思う。私の仕事はこの椅子に倚《よ》ることによって最もよく取り運ばれるにちがいないのを得心する。私はこれからでも無数の煩悶《はんもん》と失敗とを繰り返すではあろうけれども、それらのものはもう無益に繰り返される筈がない。煩悶も必ず滋養ある食物として私に役立つだろう。私のこの椅子に身を託して、私の知り得たところを主に私自身のために書き誌《しる》しておこうと思う。私はこれを宣伝の為めに書くのではない。私の経験は狭く貧しくして、とてもそんな普遍的な訴えをなし得ないことを私はよく知っている。ただ私に似たような心の過程に在《あ》る少数の人がこれを読んで僅かにでも会心の微笑を酬《むく》ゆる事があったら、私自身を表現する喜びの上に更に大きな喜びが加えられることになる。
秩序もなく系統もなく、ただ喜びをもって私は書きつづける。
九
センティメンタリズム、リアリズム、ロマンティシズム――この三つのイズムは、その何《いず》れかを抱《いだ》く人の資質によって決定せられる。或る人は過去に現われたもの、若しくは現わるべかりしものに対して愛着を繋ぐ。そして現在をも未来をも能《あた》うべくんば過去という基調によって導こうとする。凡《すべ》ての美しい夢は、経験の結果から生れ出る。経験そのものからではない。そういう見方によって生きる人はセンティメンタリストだ。
また或る人は未来に現われるもの、若しくは現わるべきも
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