とはない。お前の個性が生長して今までのお前を打ち破って、更に新しいお前を造り出すまで、お前は外界の圧迫に余儀なくされて、無理算段をしてまでもお前が動く必然を見なくなる。例えばお前が外界に即した生活を営んでいた時、お前は控え目という道徳を実行していたろう。お前は心にもなく善行をし過すことを恐れて、控目に善行をしていたろう。然しお前は自分の欠点を隠すことに於《おい》ては、中々控目には隠していなかった。寧《むし》ろ恐ろしい大胆さを以て、お前の心の醜い秘密を人に知られまいとしたではないか。お前は人の前では、秘《ひそ》かに自任しているよりも、低く自分の徳を披露《ひろう》して、控目という徳性を満足させておきながら、欲念というような実際の弱点は、一寸見《ちょっとみ》には見つからない程、綿密に上手に隠しおおせていたではないか。そういう態度を私は無理算段と呼ぶのだ。然し私に即した生活にあっては、そんな無理算段はいらないことだ。いかなる欲念も、畢竟《ひっきょう》お前の個性の生長の糧《かて》となるのであるが故に、お前はそれに対して臆病であるべき必要がなくなるだろう。即ち、お前は、私の生長の必然性のためにのみ変化して、外界に対しての顧慮から伸び縮みする必要は絶対になくなるべき筈《はず》だ。何事もそれからのことだ。
 お前はまた私に帰って来る前に、お前が全く外界の標準から眼を退けて、私を唯一無二の力と頼む前に、人類に対するお前の立場の調和について迷ったかも知れない。驀地《まっしぐら》にお前が私と一緒になって進んで行くことが、人類に対して迷惑となり、その為めに人間の進歩を妨げ、従って生活の秩序を破り、節度を壊すような結果を多少なりとも惹《ひ》き起しはしまいか。そうお前は迷ったろう。
 それは外界にのみ執着しなれたお前に取っては考えられそうなことだ。然しお前がこの問題に対して真剣になればなる程、そうした外部的な顧慮は、お前には考えようとしても考えられなくなって来るだろう。水に溺《おぼ》れて死のうとする人が、世界の何処かの隅《すみ》で、小さな幸福を得た人のあるのを想像して、それに祝福を送るというようなことがとてもあり得ないと同様に、お前がまことに緊張して私に来る時には、それから結果される影響などは考えてはいられない筈だ。自分の罪に苦しんで、荊棘《いばら》の中に身をころがして、悶《もだ》えなやんだ聖者フランシスが、その悔悟の結果が、人類にどういう影響を及ぼすだろうかと考えていたかなどと想像するようなものは、人の心の正しい尊さを、露程も味ったことのない憐《あわ》れな人といわなければならないだろう。
 お前にいって聞かす。そういう問いを発し、そういう疑いになやむ間は、お前は本当に私の所に帰って来る資格は持ってはいないのだ。お前はまだ徹底的に体裁ばかりで動いている人間だ。それを捨てろ。それを捨てなければならぬ程に今までの誤謬《ごびゅう》に眼を開け。私は前後を顧慮しないではいられない程、緩慢な歩き方はしていない。自分の生命が脅かされているくせに、外界に対してなお閑葛藤《かんかっとう》を繋《つな》いでいるようなお前に対しては、恐らく私は無慈悲な傍観者であるに過ぎまい。私は冷然としてお前の惨死を見守ってこそいるだろうが、一臂《いっぴ》の力にも恐らくなってはやらないだろう。
 又お前は、前にもいったことだが、単に専門家になったことだけでは満足が出来なくなる。一体人は自分の到る処《ところ》に自分の主《あるじ》でなければならぬ。然《しか》るに専門家となるということは、自分を人間生活の或る一部門に売り渡すことでもある。多かれ少かれ外界の要求の犠牲となることである。完全な人間――個性の輪廓《りんかく》のはっきりまとまった人間となりたいと思わないものが何処《どこ》にあろう。然るにお前はよくこの第一義の要求を忘れてしまって、外聞という誘惑や、もう少し進んだところで、社会一般の進歩を促し進めるというような、柄にもない非望に駆られて、お前は甘んじて一つしかないお前の全生命を片輪にしてしまいたがるのだ。然しながら私の所に帰って来たお前は、そんな危険な火山頂上の舞踏はしていない。お前の手は、お前の頭は、お前の職業は、いかに分業的な事柄にわたって行こうとも、お前は常にそれをお前の個性なる私に繋いでいるからだ。お前は大抵の分業にたずさわっても自分自身であることが出来る。しかのみならず、若《も》しお前のしている仕事が、到底お前の個性を満足し得ない時には、お前は個性の満足の為めに仕事を投げ捨てることを意としないであろう。少くともかかる理不尽な生活を無くなすように、お前の個性の要求を申出すだろう。お前のかくすることは、無事ということにのみ執着したがる人間の生活には、不都合を来《きた》す結果になるかも知れ
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