それに飽き足らず思う時が遂に来ようとしている。まだいくらか誠実が残っていたのはお前に取って何たる幸だったろう。お前は絶えて久しく捨ておいた私の方へ顔を向けはじめた。今、お前は、お前の行為の大部分が虚偽であったのを認め、またお前は真の意味で、一度も祈祷をしたことのない人間であるのを知った。これからお前は前後もふらず、お前の個性と合一する為めにいそしまねばならない。お前の個性に生命の泉を見出し、個性を礎《いしずえ》としてその上にありのままのお前を築き上げなければならない。
七
私の個性は更に私に告げてこう云う。
お前の個性なる私は、私に即して行くべき道のいかなるものであるかを説こうか。
先ず何よりも先に、私がお前に要求することは、お前が凡《すべ》ての外界の標準から眼をそむけて、私に帰って来なければならぬという一事だ。恐らくはそれがお前には頼りなげに思われるだろう。外界の標準というものは、古い人類の歴史――その中には凡ての偉人と凡ての聖人とを含み、凡ての哲学と科学、凡ての文化と進歩とを蓄えた宏大もない貯蔵場だ――と、現代の人類活動の諸相との集成から成り立っている。それからお前が全く眼を退けて、私だけに注意するというのは、便《たよ》りなくも心細くも思われることに違いない。然し私はお前に云う。躊躇《ちゅうちょ》するな。お前が外界に向けて拡げていた鬚根《しゅこん》の凡てを抜き取って、先を揃《そろ》えて私の中に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《さ》し入れるがいい。お前の個性なる私は、多くの人の個性に比べて見たら、卑しく劣ったものであろうけれども、お前にとっては、私の外により[#「より」に傍点]完全なものはないのだ。
かくてようやく私に帰って来たお前は、これまでお前が外界に対してし慣れていたように、私を勝手次第に切りこまざいてはならぬ。お前が外界と交渉していた時のように、善悪美醜というような見方で、強《し》いて私を理解しようとしてはならぬ。私の要求をその統合のままに受け入れねばならぬ。お前が私の全要求に応じた時に於てのみ私は生長を遂げるであろう。私はお前が従う為めに結果される思想なり言説なり行為なりが、仮りに外界の伝説、習慣、教訓と衝突矛盾を惹《ひ》き起すことがあろうとも、お前は決して心を乱して、私を疑うようなことをしてはならぬ。急がず、躊《ため》らわず、お前の個性の生長と完成とを心がけるがいい。然しここにくれぐれもお前に注意しておかねばならぬのは、今までお前が外面的の、約束された、習俗的な考え方で、個性の働きを解釈したり、助成したりしてはならぬという事だ。例えば個性の要求の結果が一見肉に属する慾の遂行のように思われる時があっても、それをお前が今まで考えていたように、簡単に肉慾の遂行とのみ見てはならぬ。同様に、その要求が一見霊に属するもののように思われても、それを全然肉から離して考えるということは、個性の本然性に背《そむ》いた考え方だ。私達の肉と霊とは哲学者や宗教家が概念的に考えているように、ものの二極端を現わしているものでないのは勿論《もちろん》、それは差別の出来ない一体となってのみ個性の中には生きているのだ。水を考えようとする場合に、それを水素と酸素とに分解して、どれ程綿密に二つの元素を研究したところが、何の役にも立たないだろう。水は水そのものを考えることによってのみ理解される。だから私がお前に望むところは、私の要求を、お前が外界の標準によって、支離滅裂にすることなく、その全体をそのまま摂受して、そこにお前の満足を見出す外《ほか》にない。これだけの用意が出来上ったら、もう何の躊躇もなく驀進《ばくしん》すべき準備が整ったのだ。私の誇りかなる時は誇りかとなり、私の謙遜《けんそん》な時は謙遜となり、私の愛する時愛し、私の憎む時憎み、私の欲するところを欲し、私の厭《いと》うところを厭えばいいのである。
かくしてお前は、始めてお前自身に立ち帰ることが出来るだろう。この世に生れ出て、産衣《うぶぎ》を着せられると同時に、今日までにわたって加えられた外界の圧迫から、お前は今始めて自由になることが出来る。これまでお前が、自分を或る外界の型に篏《は》める必要から、強いて不用のものと見て、切り捨ててしまったお前の部分は、今は本当の価値を回復して、お前に取ってはやはり必要欠くべからざる要素となった。お前の凡ての枝は、等しく日光に向って、喜んで若芽を吹くべき運命に逢《あ》い得たのだ。その時お前は永遠の否定を後ろにし、無関心の谷間を通り越して、初めて永遠の肯定の門口に立つことが出来るようになった。
お前の実生活にもその影響がない訳ではない。これからのお前は必然によって動いて、無理算段をして動くこ
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