に行き着くことが出来たとしても、その時お前は既に人間ではなくなって、一個の専門家即ち非情の機械になっているからだ。お前自身の面影は段々淡くなって、その淡くなったところが、聖人や英雄の襤褸布《ぼろきれ》で、つぎはぎになっているからだ。その醜い姿をお前はいつしか発見して後悔せねばならなくなる。後悔したお前はまたすごすごと私の所まで後戻りするより外に道がないのだ。
だからお前は私の全支配の下にいなければならない。お前は私に抱擁せられて歩いて行かなければならない。
個性に立ち帰れ。今までのお前の名誉と、功績と、誇りとの凡てを捨てて私に立ち帰れ。お前は生れるとから外界と接触し、外界の要求によって育て上げられて来た。外界は謂《い》わばお前の皮膚を包む皮膚のようになっている。お前の個性は分化拡張して、しかも稀薄《きはく》な内容になって、中心から外部へ散漫に流出してしまった。だからお前が、私を出し抜いて先き走りをするのも一面からいえば無理のないことだ。そしてお前は私に相談もせずに、愛のない時に、愛の籠《こも》ったような行いをしたり、憎しみを心の中に燃やしながら、寛大らしい振舞いをしたりしたろう。そしてそんな浮薄なことをする結果として、不可避的に心の中に惹《ひ》き起される不愉快な感じを、お前は努力に伴う自らの感じと強《し》いて思いこんだ。お前の感情を訓練するのだと思った。そんな風にお前が私と没交渉な愚かなことをしている間は、縦令《たとい》山程の仕事をし遂げようとも、お前自身は寸分の生長をもなし得てはいないのだ。そしてこの浅ましい行為によってお前は本当の人間の生活を阻害し、生命のない生活の残り滓《かす》を、いやが上に人生の路上に塵芥《じんかい》として積み上げるのだ。花屋の為めに一本の桜の樹は花ばかりの生存をしていてもいいかも知れない。その結果それが枯れ果てたら、花屋は遠慮なくその幹を切り倒して他の苗木を植えるだろうから。然し人間の生活の中に在る一人の人間はかくあってはならない。その人間が個性を失うのは、取りもなおさず社会そのものの生命を弱めることだ。
お前も一度は信仰の門をくぐったことがあろう。人のすることを自分もして見なければ、何か物足りないような淋しさから、お前は宗教というものにも指を染めて見たのだ。お前が知るであろう通りに、お前の個性なる私は、渇仰的という点、即ち生長の欲求を烈《はげ》しく抱《いだ》いている点では、宗教的ということが出来る。然し私はお前のような浮薄な歩き方はしない。
お前は私のここにいるのを碌々《ろくろく》顧みもせずに、習慣とか軽い誘惑とかに引きずられて、直《す》ぐに友達と、聖書と、教会とに走って行った。私は深い危懼《きく》を以てお前の例の先き走りを見守っていた。お前は例の如く努力を始めた。お前の努力から受ける感じというのは、柄にもない飛び上りな行いをした後に毎時《いつ》でも残される苦しい後味なのだ。お前は一方に崇高な告白をしながら、基督《キリスト》のいう意味に於て、正《まさ》しく盗みをなし、姦淫《かんいん》をなし、人殺しをなし、偽りの祈祷《きとう》をなしていたではないか。お前の行いが疚《や》ましくなると「人の義とせらるるは信仰によりて、律法の行いに依らず」といって、乞食のように、神なるものに情けを乞うたではないか。又お前の信仰の虚偽を発《あば》かれようとすると「主よ主よというもの悉《ことごと》く天国に入るにあらず、吾が天に在《ましま》す神の旨に遵《よ》るもののみなり」といってお前を弁護したではないか。お前の神と称していたものは、畢竟するに極く幽《かす》かな私の影に過ぎなかった。お前は私を出し抜いて宗教生活に奔《はし》っておきながら、お前の信仰の対象なる神を、私の姿になぞらえて造っていたのだ。そしてお前の生活には本質的に何等の変化も来《きた》さなかった。若し変化があったとしても、それは表面的なことであって、お前以外の力を天啓としてお前が感じたことなどはなかった。お前は強いて頭を働かして神を想像していたに過ぎないのだ。即ちお前の最も表面的な理智と感情との作用で、かすかな私の姿を神にまで捏《こ》ねあげていたのだ。お前にはお前以外の力がお前に加わって、お前がそれを避けるにもかかわらず、その力によって奮い起《た》たなければならなかったような経験は一度もなかったのだ。それだからお前の祈りは、空に向って投げられた石のように、冷たく、力なく、再びお前の上に落ちて来る外はなかったのだ。それらの苦々《にがにが》しい経験に苦しんだにもかかわらず、お前は頑固《がんこ》にもお前自身を欺いて、それを精進と思っていた。そしてお前自身を欺くことによって他人をまで欺いていた。
お前はいつでも心にもない言行に、美しい名を与える詐術を用いていた。然し
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