な道徳観念を度外視しても)、何等の不満をもあなたの個性に感じなかったか。あなたはまたあなたと見知らない少女の姿全体に、極度の恐怖と憎悪《ぞうお》とを見出したろう。あなたはそれに少しでも打たれなかったか。そしてそこに苦い味を感じなかったか。若しあなたに人並みの心があるなら、私のこの問に応じて否と答えるの外はあるまい。だから私はいう。その場合あなたが本能の衝動らしく思ったものは、精神から切り放された肉慾の衝動にしか過ぎなかったのだ。だからあなたはその衝動を行為に移す第一の瞬間に既に見事に罰せられてしまったのだ。若しあなたが本当に本能の(個性全体の)衝動によってその少女を欲するなら、あなたは先ずその少女にあなたの切ない愛を打ち明けるだろう。そして少女が若しあなたの愛に酬《むく》いるならば、その時あなたはその少女をあなたの衷《うち》に奪い取り、少女はまたあなたを彼女の衷に奪い取るだろう。その時あなたと少女とは二人にして一人だ(前にもいった如く)。そしてあなたは十分な飽満な感じを以て心と肉とにおいて彼女と一体となることが出来る。その時、その事の前に何等の不満もなく、その事の後には美しい飽満があるばかりだろう。(これは余事にわたるが好奇な人のために附け加えておく。若し少女がその人の愛に酬いることを拒まねばならなかった場合はどうだ。その場合でも彼の個性は愛したことによって生長する。悲しみも痛みもまた本能の糧《かて》だ。少女は永久に彼の衷に生きるだろう。そして更に附け加えることが許されるなら、彼の肉慾は著しくその働きを減ずるだろう。そこには事件の精神化がおのずから行われるのだ。若し然しその人の個性がそのcFあったために分散し、精神が糜爛《びらん》し、肉慾が昂進《こうしん》したとするならば、もうその人に於て本能の統合は破れてしまったのだ。本能的生活はもうその人とは係わりはない。然しそんな人を智的生活が救うことが出来るか。彼は道徳的に強《し》いて自分の行為を律して、他の女に対してその肉慾を試みるようなことはしないかも知れない。然しその瞬間に彼は偽善者になり了《おお》せてしまっているのだ。彼はその心に姦淫《かんいん》しつづけなければならないのだ。それでもそれは智的生活の平安の為めには役立つかも知れない。けれどもかくの如き平安によって保たれる人も社会も災いである。若し彼が或る動機から、猛然としてもとの自己に眼覚《めざ》める程緊張したならばその時彼は本能的生活の圏内に帰還しているのだ。だから智的生活の圏内に於ける生活にあってこそ、知識も道徳もなくて叶《かな》わぬものであるが、本能的生活の葛藤《かっとう》にあっては、智的生活の生んだ規範は、単にその傷を醜く蔽《おお》う繃帯《ほうたい》にすらあたらぬことを知るだろう)。その時精神は精神ではなく、肉慾は肉慾ではない。両者は全くその区別を没して、愛の統流の中に溶けこんでしまう。単なる形の似よりから凡ての現われと同じものと見るのは、甚《はなはだ》しき愚昧《ぐまい》な見断である。
 この一つの例は私の本能に対する見解を朧《おぼ》ろげながらも現わし得たではなかろうか。かくの如く本能は、全体的なそして内部的な個性の要求だ。然るに智的生活はこれとは趣きを異にしている。縦令智的生活は、長い間かかった、多くの人の経験の集成から成り立つものだとはいえ、その個性に働く作用はいつでも外部からであって、しかも部分的である。その外部的である訳は、それが誰の内部生活からも離れて組み立てられたものであるからだ。それは生活の全部を統率するために、人間によって約束された規範であるからだ。それなら何故部分的であるか。智的生活にあっては義務と努力とが必要な条件として申し出られているからだ。義務にも努力にも、人間の欲求の或る部分の棄捨が予想されている。或る欲求を圧抑するという意識なしには、義務も努力も実行されはしない。即ち個性の全要求の満足という事は行われ得ない約束にある。若しかかる約束にある智的生活が生活の基調をなし、指導者とならなければならぬとしたら、人間は果して晏如《あんじょ》としていることが出来るだろうか。私としてはそれを最上のものとして安んじていることが出来ない。私はその上に、私の個性の全要求を満足し、しかもその満足が同時によいことであるべき生活を追い求めるだろう。そしてそれは本能的生活に於《おい》て与えられるのだ。本能的生活によって智的生活は内面化されなければならぬ。本能的生活によって智的生活は統合化されなければならぬ。かくいえば、私が、本能的生活は智的生活を指導せねばならぬと主張した理由が明かになると思う。
 然らば社会生活は私がいった個人の生活過程を逆にでも行かねばならぬというのか。社会生活にあっては、智的生活をもって本能的生活の指
前へ 次へ
全44ページ中37ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング