境に対する一路の憧憬《どうけい》でないといえようか。色もまた色そのものには音の如く意味がない。面もまた面そのものには色の如く意味がない。然しながら形象の模倣再現から這入ったこの芸術は永くその伝統から遁《のが》れ出ることが出来ないで、その色その面を形の奴婢《ぬひ》にのみ充《あ》てていた。色は物象の面と空間とを埋めるために、面は物象の量と積とを表わすためにのみ用いられた。そして印象派の勃興《ぼっこう》はこの固定概念に幽《かす》かなゆるぎを与えた。即ち絵画の方向に於て、色と色との関係に価値をおくことが考えつけられた。色が何を表わすかということより、色と色との関係の中に何が現われねばならぬかと云うことが注意され出した。これは物質から色の解放への第一歩であらねばならぬ。しかしこの傾向は未来派に至って極度に高調された。色は全く物質から救い出された。色は遂に独立するに至った。
 然し音楽が成就しただけのことを未来派は絵画に於て成就し得ているだろうかという問題はおのずから別に考えられなければならぬ。私はこれらの芸術に対して何等具体的の知識を持っているものでない。だから私はかかる比較論に来ると口をつぐむ外はない。けれども未来派の傾向を全然|斥《しりぞ》けらるべきものだと主張する人に対しては、私は以上の見地からこの派の傾向の可能性を申し出ることが出来はしないかと思っている。若し物象が具象化されなければ満足が出来ないと人がいうならば、その人の為めには、文学の領内に詩と小説とが併存するように、これまでのような絵画を存続させておくのもまた妨げないだろう。然しながら美術家の個性が益※[#二の字点、1−2−22]《ますます》高調せられねばならぬ時はやがて来るだろう。その時になって未来派のような傾向が起るのは、私の立場からいうと、極めて自然なことであるといわねばならぬのだ。
 人間は十分に恵まれている。私達は愛の自己表現の動向を満足すべき有らゆる手段を持っている。厘毛の利を争うことから神を創ることに至るまで、偽らずに内部の要求に耳を傾ける人ほど、彼は裕《ゆた》かに恵まれるであろう。凡ての人は芸術家だ。そこに十二分な個性の自由が許されている。私は何よりもそれを重んじなければならない。

        二二

 私はまた愛を出発点として社会生活を考えて見よう。
 社会生活は個人生活の延長であらねばならぬ。個人的欲求と社会的欲求とが軒輊《けんち》するという考えは根柢的《こんていてき》に間違っている。若《も》しそこに越えることの出来ない溝渠《こうきょ》があるというならば、私は寧《むし》ろ社会生活を破壊して、かの孤棲《こせい》生活を営む獅子《しし》や禿鷹《はげたか》の習性に依ろう。
 然《しか》しかかる必要のないことを私の愛は知っている。社会生活に対する概念の中に誤った所があるか、個人生活の概念の中に誤った所があるかによって、この不合理な結論が引き出されると私は知っている。
 先《ま》ず個人の生活はその最も正しい内容によって導かれなければならぬ。正しき内容とは何をいうのか。智的生活が習性的生活を是正する時には、私は智的生活に従って習性的生活を導かねばならぬ。本能的生活が智的生活を是正する時には、私は本能的生活に従って智的生活を導かねばならぬ。即ち常に習性的生活の上に智的生活を、智的生活の上に本能的生活を置くことを第一の仕事と心懸けねばならぬ。正しき内容とはそれだけのことだ。
 習性的生活と智的生活との関係についてはいうまでもあるまい。習性的生活が智的生活の指導によって適合を得なければならないというのは自明のことであるから。
 然しながら智的生活が本能的生活によって指導されねばならぬということについては不服を有《も》つ人がないとはいえない。智的生活は多くの人々の経験の総和が生み出した結果であり約束であるが、本能的生活は純粋個性内部の衝動であるが故に、必ずしも社会生活と順応することが出来ないだろうとの杞憂《きゆう》は起りがちに見えるからである。
 けれども私は私の意味する本能的生活の意味が正しく理解されることを希《ねが》う。本能の欲求はいつでも各人の個性全体の上に働くところのものだ。その衝動は常に個性全体の飽満を伴って起る。この例は卑陋《ひろう》であるかも知れないが、理解を容易ならしむる為めにいって見ると、ここに一人の男がいて、肉慾の衝動に駆られて一人の少女を辱《はず》かしめたとしよう。肉慾も一つの本能である。その衝動の満足を求めたことは、そのまま許されることではないか。そう或る人は私に詰問するかも知れない。私はその人に問い返して見よう。あなたが考える前に先ずあなたをその男の位置におけ。あなたが肉慾的にのみその少女を欲しているのに、あなたはその少女に近づく時(全く固定的
前へ 次へ
全44ページ中36ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング