導者たらしめ、若しくは習性的生活をもって智的生活の是正者たらしめねばならぬとでもいうのか。若し果してそうならば、社会生活と個人生活とはたしかに軒輊《けんち》するであろう。私にはそうは思われない。社会の欲求もまたその終極はその生活内部の全体的飽満にあらねばならぬ。縦令《たとい》現在、その生活の基調は智的生活におかれてあるとも、その欲求としては本能的生活が目指されていねばならぬ。社会がその社会的本能によって動く時こそ、その生活は純一無雑な境地に達するだろう。
ここで或る人は多分いうだろう。お前の言葉は明かにその通りだ。進化の過程としては、社会もまた本能的生活に這入《はい》ることを、その理想とせねばならぬ。けれども現在にあっては、個人には本能的生活の消息を解し、それを実行し得る人があるとしても、社会はまだかかる境地に達せんには遠い距離がある。かかる状態にあって、個人生活と社会生活とが軒輊するのは当然なことではないかと。
私はこの抗議を肯《がえん》じよう。然しこの場合、改めねばならぬのは個人の生活であるか、社会の生活であるか、どちらだ。両者の間に完全な調和を持ち来《きた》すために進歩させねばならぬ生活は、どちらの生活だ。社会生活の現状を維持する為めに、私達はここまで進んで来た個人生活を停止し若しくは退歩させて、社会生活との適合に持ち来さねばならぬというのか。多くの人はそうあるべき事のように考えているように見える。私は断じてこれを不可とする。
変らねばならぬものは社会の生活様式である。それが変って個人の生活様式にまで追い付かねばならぬ。
国家も産業も社会生活の一様式である。近代に至って、この二つの様式に対する根本的な批判を敢《あ》えてする二つの見方が現われ出た。それは個性の要求が必至的に創《つく》り出した見方であって、徒《いたず》らなる権力が如何ともすべからざる一個の権威である。一時は権力を以《もっ》て圧倒することも出来よう。然しながら結局は、現存の国家なり産業組織なりが、合理的な批判を以てそれを打壊し得るにあらずんば、決して根絶することの出来ない見方である。私のいう二つの見方とは、社会主義であり、無政府主義である。
この二つの主義のかくまでの力強さは何処《どこ》にあるか。それは、縦令《たとい》不完全であろうとも、個性の全的要求が生み出した主義だからである。社会主義者は自ら人間の社会的本能が生み出した見方であると主張するけれども、その主義の根柢をなすものは生存競争なる自然現象である。生存競争は個性から始まって始めて階級争闘に移るのだ。だからその点に於て社会主義者の主張は裏切られている。無政府主義に至っては固《もと》より始めから個性生活の絶対自由をその標幟《ひょうし》としている。
社会主義はダーウィンの進化論から生存競争の原理を抜いてその主張の出発点としたことは前に述べた通りだ。クロポトキンはこれに対立して無政府主義を宣言するに当り、進化論の一原理なる相互扶助の動向を取ってその論陣を堅めた。両者共に、個性から発して動植物両界の致命的要素たる本能であるとせられている。一方の主義者は生存競争の為めの相互扶助だと主張し、一方の主義者は相互扶助の為めの生存競争だと主張する。私はここで敢えて主義者の見地を裁断しようとも思わないし、又私の自然科学に対する空疎な知識はそれをすることも許しはしない。
然し私はこういうことを申し出して見たい。ケーベル博士がそのカント論に於て「生物学に於て取り扱われる動物本能は、畢竟《ひっきょう》人間にある本能の投影に過ぎない。認識作用が事物に遵合《コンフォーム》するのではなく、却《かえ》って事物(現象としての)が認識作用に遵合するのである」といった言葉は、単に唯心論者の常套語《じょうとうご》とばかりはいい退けてしまうことが出来ない。そこには動かすことの出来ない実際的|睿智《えいち》が動いているのを私は感ずることが出来る。惟《おも》うに動物には、ダーウィンが発見した以外に幾多の本能が潜んでいるに相違ない。そしてそれがより以上の本能の力によって統合されているに相違ない。然しながら十九世紀の生物学者は、眼覚めかけて来た個性の要求(それは十八世紀の仏国の哲学者等に負うところが多いだろう)と社会の要求との間に或る広い距離を感じたのではなかったろうか。そして動物中に行われる現状打破の本能を際立《きわだ》って著しいものと認めたのではなかったろうか。然しその時学者達の頭の中には、個性は社会を組織する或る小さな因子としてのみ映っていたろう。しかのみならず科学的研究法の必然的な条件として、凡《すべ》てのものを二元的に見ることに慣らされていた。彼等はひとりでに個性と社会とを対立させた。従ってその結論も個性と社会との中、個性に重きを
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