った。父がどうしてこんなになったのか、どう思ってみようもなかった。いくらなんにも知らないおせいにも、自分のような貧乏な、無学な、知り合いもないような人間を正妻に迎えるわけがないのは分りきっているのに、しらじらしい顔つきをして、自分の娘をごまかそうとするらしい父が邪慳《じゃけん》の鬼のようにも思えた。
「お前は何んでも世間の見るとおりに物を見ようとするからいけない。高利貸といえばすぐ鬼のような無慈悲な奴、妾を持つといえばすぐ※[#「けものへん+非」、314−上−2]々《ひひ》のような淫乱者、そう頭から決めてかかるんだが、そういちがいにはいえるもんじゃない。何んでも浅田の話では、見たところは小作りな、あれが評判の梶という人かと思うほど物わかりのいいやさしい人だということだ。それが合田さんの所でお前を二度ほど見かけて、ぜひということになったものらしい。お前がお茶でも持ってでた覚えはないかな。※[#「月+咢」、第3水準1−90−51]《あご》の左の方にちょっと眼に立つほどの火傷のあとがあるそうだが……」
 おせいはそれを聞くと身がすくむようだった。体がかたくなった。肩が凝りきった時のように、頸筋《くびすじ》から背中がこわばって、血のめぐりが鈍く重く五体の奥の方だけを動くようで、それが胸のところを下の方から気味悪るく衝き上げた。眼界がだんだん狭まって、火鉢にかざされた、長い指の先がぶるぶる震えどおしている。皺《しわ》くちゃな父の両手だけが、切り放したようにぼんやり見えていた。「いつ私はその人に見られていたんだろう」と思うと、怖ろしさと無気味さに気息《いき》がとまった。
「お前見たことはないか」
「いいえ」
 おせいの眼は父の手から辷《すべ》り落ちて、膝の上に乗せてある自分の手の方に行った。涙にしとったハンケチを丸めてぎゅっと握りつめているそのかぼそい手も他人《ひと》の手のようだった。若様が自分の手の間に挾んで、やさしく撫でてくださろうとした手だ。それをむりにふり放した手だ。……涙がはらはらと彼女の眼から新しくこぼれでた。
 気まずい沈黙がそのあとに続いた。
 いっそ……ああ若様と私とは身分がちがう。
 すぐ見棄てられるにきまっている。その時の苦しさを思うとどうしても今までどおりにしているほかはない……といって、私はきっといつかは敗けてしまうに決っている……たとえ、見棄てられても、一度だけでも……おせいは切羽《せっぱ》つまった気持の中で、悲しい嬉しい瞬間を心に描いた。それがせめてもの腹いせだった。……そして死んでしまえばそれでいいんじゃないか……
「お父さんはたってと勧めるんじゃない……が、お前はどうしても気が向かないというのだな……」
 おせいはびくりとして夢のようなところから没義道《もぎどう》にひきもどされた。彼女はいつの間にかハンケチを眼にあてていた。
「まあお父さんの胸の中もひととおり聞いてくれ。俺も五十二になる。昔なら殿様に隠居を願いでて楽にくつろぐ時分だが、時世とはいい条《じょう》……また、清逸の奴がどういうつもりなのか、あの年になっていて、見さかいのなさ加減はない。このごろもお前、家にいて、毎日の家の様子は見ているくせに、箒《ほうき》一つ取るでもなく、家いっぱいにひろがって横着をきめている始末だ。学問ができるのなんのって人がちやほやするのを真《ま》に受けてしまってからに、有頂天《うちょうてん》になっている。あんな病気を背負いこんで薬代だけでもなみたいていでないのに、東京へ出かけようといってさらに聞かんのだ。俺もこうやってはいるがいざとなればそのくらいの工面はつくから、苦しいながらあちこち世話をやいてやってみると、そんなところから金を出してもらうのは嫌だとか何んとか、つべこべいいくさる。……」
 こういう不平をきっかけに父は母が少しも甲斐性のないことや、純次がますます物わかりが悪くなって、親を睨《にら》めかえすしぶとさばかりが募るということや、孵化場《ふかじょう》の所長が代ると経費が節減されて、店の方の実入りが思わしくないということや、今度の所長の人格が下司のようだということや、あらん限りの憤懣《ふんまん》を一時にぶちまけ始めた。それをじっとして聞いているおせいはさすがに父が哀れになった。五十二というのに、その人は六十以上に老い耄《ぼ》けていた。これほどの貧乏に陥るのももとはといえば何んといっても父の不精から起ったことだと、苦しいにつけ、辛らいにつけ、おせいは父を恨めしく思う気持になるのだったが、眼前世の中が力にあまって、当惑しているような父の姿を見ると、母も母だ、兄も兄だという心が起った。
「愚痴《ぐち》には違いない……愚痴には違いないがお前にでも聞いてもらわにゃお父さんは愚痴をこぼすせきもないような身柄になったよ、いやどう
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