も……それに、これもお前だけに聞いてもらうことだが、じつは俺も、その、苦しさから浅田さんに頼んで、金をば六百円ほど融通してもらっているので……」
 おせいはそれが崇《たた》っているのだと始めて始終が見えきったように思った。
「もっともあれはあれで親切人だから、そのことを根に持つような人柄ではないが、俺は頑固な昔気質だから、どうも寝ざめがようないのだ。俺は困っとるよ……」
 と父は膝のまわりを尋ねまわして、別々になっている煙草入と煙管とを拾い上げると、慌《あわ》てるようにして煙草をつめたが、吸うかと思うと火もつけずに、溜息とともにそれを畳の上に戻してしまった、おせいはおずおず父の顔を窺《うかが》った。垢染《あかじ》みて、貧乏|皺《じわ》のおびただしくたたまれた、渋紙のような頬げたに、平手で押し拭われたらしい涙のあとが濡れたままで残っている。そこには白髪の三本ほど生えた大きな疣《いぼ》もあった。小さい時、きょうだいで寄ってたかって、おちちだといってしゃぶった疣だ。……思案にあまるというのはこれだろうか。彼女の心はしーんとしたなりで少しも働こうとはしなかった。おせいはひとりでに襟《えり》の中に顔を埋めた。無性に悲しくなるばかりだった。
 力がなえきってみえた父は、最後の努力でもするように、おせいの方に向きなおって、膝の上に両肱《りょうひじ》をついて丸っこくかごまった。
「おせい……」
 鼻をすすりながらそれを横撫でにした。
「甲斐性のないおやじと下げすんでくれるなよ。俺も若い時に、なまじっかな楽な暮しをしたばかりに、この年になっての貧乏が、骨身にこたえるのだ。俺一人が楽をしようというではけっしてないがな、何しろ、今日日々の米にも困ってな……この四年あまりというもの、お前のしてきた苦労も、俺は胸の中でよっく察している。親というものは子にかけちゃ神様のように何んでも分る。お前は小さい時から素直な子だったが、素直であればあるほど……」
「お父さんそんなことをいうのはもうよしてください……」
 おせいはほとんど憤《いきどお》りたいような悲哀に打たれて思わずこう叫んでしまった。
 とにかく二三日中にはっきりした返事をすると約束しておせいはようやく父の宿を出た。
 もうまったく日が暮れていた。ショールに眼から下をすっかり包んで、ややともすると足をさらおうとする雪の坂道を、つまさきに力を入れながらおせいはせっせと登っていった。港の方からは潮騒のような鈍い音が流れてきた。その間に汽船の警笛が、耳の底に沁《し》みこむように聞こえている。空荷になった荷物橇《にもつぞり》が、大きな鈴を喉《のど》にぶらさげて毛の長い馬に引かれながら何台も何台もおせいのそばを通りぬけた。顔をすっかり頭巾《ずきん》で包んで、長い手綱で遠くの方から橇を操《あやつ》っている馬方は、寄り道をするようにしておせいを覗きこみに来た。幾人となく男女の通行人にも遇った。吠えつきに来た犬もあった。けれどもおせいにはそれらのものが、どれもこの世界のものではないようだった。今まで父といっしょにいたというのも嘘のようだった。万人が行ったり来たりする賑《にぎや》かな往来、そこでおせいが何百人何千人となく行き遇った人々、その中には、おせいが歩いているような気持で歩いている人がやはりいたのだろうか。それにしては自分は今まで何んというのんきな自分だったろう。そんな苦労を持っているらしい人は一人だって見当らないようだったが。……人間っていうものはやはりこんな離れ離れな心で生きてゆくものなのだ。底のないような孤独を感じて彼女はそう思った。
 主家の大きな門の前に来た。朋輩たちがおせいの帰りの遅いのをぶつぶつ言いながら、彼女の分までも働いているだろうと思うと気が気でなかった、大急ぎで門を駈けこんだ。
 こちらから挨拶もしないうちに、台所で働いてる女中の一人が、
「早かったわね。奥さんがお待ちかねよ」
 といった。
「若様もお待ちかねよ」
 ともう一人のがいった。おせいは何んともいえない淫《みだ》りがましいいやなことをいう人だと思った。
 おせいは取りあえず奥の間に行って、講談物か何かを読み耽《ふけ》っているらしい奥様の前に手をついた。そして、
「ただいま戻りました。おそくなりまして相すみません。父がよろしくと申されました」
 というと、いつもの癖の眼鏡の上の方から眼を覗かせて、睨むようにこっちを見ていた奥様は、
「父がよろしくと申されましたかね。あの(といって柱時計を見かえりながら)お前もう御飯を召しあがりましたろうね」
 と憎さげにまた書物を取り上げた。どうかすると気味が悪るいほど親切で、どうかするとこちらがヒステリーになりそうに皮肉なのがこの人の癖だとは知りながらおせいは涙ぐまずにはいられなかった。
 奥様
前へ 次へ
全64ページ中57ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング