星座
有島武郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)爽《さわ》やかな

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一枚|繰《く》った

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]
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 その日も、明けがたまでは雨になるらしく見えた空が、爽《さわ》やかな秋の朝の光となっていた。
 咳の出ない時は仰向けに寝ているのがよかった。そうしたままで清逸《せいいち》は首だけを腰高窓の方に少しふり向けてみた。夜のひきあけに、いつものとおり咳がたてこんで出たので、眠られぬままに厠《かわや》に立った。その帰りに空模様を見ようとして、一枚|繰《く》った戸がそのままになっているので、三尺ほどの幅だけ障子が黄色く光っていた。それが部屋をよけい小暗く感じさせた。
 隣りの部屋は戸を開け放って戸外のように明るいのだろう。そうでなければ柿江も西山もあんな騒々しい声を立てるはずがない。早起きの西山は朝寝の柿江をとうとう起してしまったらしい。二人は慌《あわ》てて学校に出る支度をしているらしいのに、口だけは悠々《ゆうゆう》とゆうべの議論の続きらしいことを饒舌《しゃべ》っている。やがて、
「おい、そのばか馬《ま》をこっちに投げてくれ」
 という西山の声がことさら際立って聞こえてきた。清逸の心はかすかに微笑《ほほえ》んだ。
 ゆうべ、柿江のはいているぼろ袴《ばかま》に眼をつけて、袴ほど今の世に無意味なものはない。袴をはいていると白痴《はくち》の馬に乗っているのと同じで、腰から下は自分のものではないような気がする。袴ではないばか馬だと西山がいったのを、清逸は思いだしたのだ。
 隣のドアがけたたましく開いたと思うと清逸のドアがノックされた。
「星野、今日はどうだ。まだ起きられんのか」
 そう廊下から不必要に大きな声を立てたのは西山だった。清逸は聞こえる聞こえないもかまわずに、障子を見守ったまま「うん」と答えただけだった。朝から熱があるらしい、気分はどうしても引き立たなかった。その上清逸にはよく考えてみねばならぬことが多かった。
 けれども西山たちの足音が玄関の方に遠ざかろうとすると、清逸は浅い物足らなさを覚えた。それは清逸には奇怪にさえ思われることだった。で、自分を強《し》いるようにその物足らない気分を打ち消すために、先ほどから明るい障子に羽根を休めている蝿《はえ》に強く視線を集めようとした。その瞬間にしかし清逸は西山を呼びとめなければならない用事を思いついた。それは西山を呼びとめなければならないほどの用事であったのだろうか。とにかく清逸は大きな声で西山を呼んでしまった。彼は自分の喉《のど》から老人のようにしわがれた虚《うつ》ろな声の放たれるのを苦々《にがにが》しく聞いた。
「さあ園の奴まだいたかな」
 そう西山は大きな声で独語しながら、けたたましい音をたてて階子段を昇るけはいがしたが、またころがり落ちるように二階から降《お》りてきた。
「星野、園はいたからそういっておいたぞ」
 その声は玄関の方から叫ばれた。傍若無人《ぼうじゃくぶじん》に何か柿江と笑い合う声がしたと思うと、野心家西山と空想家柿江とはもつれあってもう往来に出ているらしかった。
 清逸の心はこのささやかな攪拌《かくはん》の後に元どおり沈んでいった。一度聞耳を立てるために天井《てんじょう》に向けた顔をまた障子の方に向けなおした。
 十月の始めだ。けれども札幌では十分朝寒といっていい時節になった。清逸は綿の重い掛蒲団を頸の所にたくし上げて、軽い咳《せき》を二つ三つした。冷えきった空気が障子の所で少し暖まるのだろう、かの一匹の蝿はそこで静かに動いていた。黄色く光る障子を背景にして、黒子《ほくろ》のように黒く点ぜられたその蝿は、六本の脚の微細な動きかたまでも清逸の眼に射しこんだ。一番前の両脚と、一番後ろの両脚とをかたみがわりに拝むようにすり合せて、それで頭を撫《な》でたり、羽根をつくろったりする動作を根気よく続けては、何んの必要があってか、素早くその位置を二三寸ずつ上の方に移した。乾いたかすかな音が、そのたびごとに清逸の耳をかすめて、蝿の元いた位置に真白く光る像が残った。それが不思議にも清逸の注意を牽《ひ》きつけたのだ。戸外《おもて》では生活の営みがいろいろな物音を立てているのに、清逸の部屋の中は秋らしくもの静かだった。清逸は自分の心の澄むのを部屋の空気に感ずるように思った。
 やはりおぬいさんは園に頼むが一番いい。柿江はだめだ。西山でも悪くはないが、あのがさつ[#「がさつ」に傍点]さはおぬいさんにはふさわしくない。そればかりでなく西山は剽軽《
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