、一日一日と物識りになり、美しくなっていくのを、黙って見ていなければならぬ恨めしさ。七時過ぎまでは食事もできないで、晩食後の片づけに小皿一つ粗※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]《そそう》をしまいと血眼《ちまなこ》になっている時、奥では一家の人たちが何んの苦労もなく寄り合って、ばか騒ぎと思われるほどに笑い興じているのを聞かなければならぬ妬《ねた》ましさ。それにも増して苦しかったのは奥さんの意地悪だ。妙な癖で、奥さんは家内のものの中にかならず一人は目のかたきになる人を作っておかなければ気がすまないのだ。その呪いの的になる人は時々変りはしたけれども、どういうものかおせいは貧乏籤《びんぼうくじ》をひいた。露ほどの覚えもないことをひがんで取って、奥様一流の針のような皮肉で、いたたまれないほど責めさいなむのだった。これが嵩《こう》じると自分までヒステリーのようになって、暇を取ったくらいでは気がすまないで、面あてに首でも縊《くく》ろうかと思う時さえあった。さらにそれにも増していやらしかったのは旦那様の淫《みだ》らなことだった。奥さんの目褄《めづま》を忍んでその老人のしかけるいたずらはまるで蛇に巻かれるようだった。それをおせいは軽く受け流して逃げなければならなかった。誰に訴えようもないような醜いことだった。さらにさらに、それにも増して苦しかったのは、若様といわれるその家の長男の情けだった。その人は誰が見ても綺麗な男というような人だ。おまけに旦那とはうらはらに、上品で、感情の強い人で、家の人たちには何んとなく憚《はばか》られているらしかった。淋しい感じの人だ。おせいは住みこんだ時からこの若様という人に惹《ひ》き寄せられた。朋輩がその人の噂を好いたらしくするのを聞くと、心がひとりでにときめいて、思わず顔が紅くなった。けれども何を思っても及ばないこととしてすっかり諦めていた。諦めようと苦しんでいた。ところが去年のこと、ふとしたおりにその人からおせいは挑《いど》みかけられた。おせいは眼をつぶるようにして一生懸命にその誘惑からのがれた。そして底のないような淋しさから声を立てて泣いてしまった。二十という年までじっと、じっと押えつけ、守りぬいていた火のような悲しい思いが、それからのたびたびの危い機会に一度に流れでようとしたのだったが、そしてその人が苦しんでいる様子をみると、いとしくなって何もかも忘れようとさえ思う瞬間はいつもあったのだけれども、彼女はいつでも自分の家の貧しさを思った。健康の弱い兄を思った。白痴同様な弟を思った。貧乏はしても父の名に泥を塗るなと、千歳を出る時きびしくいいわたした父の言葉も思った。自分の心をゆがめきってしまいはしないかと思われるようなこれらの辛らさ、悲しさ、妬ましさ、苦しさを今まで堪えに堪えてきたのはいったい何のため。
 おせいは水月《みぞおち》に切りこむようにこみ上げてくる痛みを、帯の間に手をさしこんでじっと押えた。父はおせいのあまりに思い入った様子に思わず躊《ため》らって、しばらくは言葉をつぐこともできなかった。
 二人はお互の間に始めてこんな気づまりな気持を味いながら、顔を見合せるのも憚《はばか》って対座していた。
「どうしてもお前はいやというのか」
 おせいはもう涙も出なかった。乾いたままで唇が無性に震えた。
「お父さん、それだけはどうか勘忍してください」
 父は地声になって口をとがらした。
「勘忍してくださいといったところが、これはお前のことだからお前の勝手にするがいいのだが、どういう訳だか訳を言わにゃ、ただ許してくれではお父さんも困るじゃないか」
「お父さんは私を……私を高利貸の……妾《めかけ》になさるつもりなんですか」
「とんでもないことを……お前はさっきから高利貸高利貸と言うが、それは働きのない人間どもが他人の成功を猜《そね》んでいうことで、泥棒をして金を儲けたわけじゃなし、お前、金を儲けようという上は、泥棒をしない限り、手段に選み好みがあるべきわけがない。金儲けがいやだとなれば、これはまた別で、お父さんのようになるよりしかたのないことだ。安田でも岩崎でも同じこった、妾囲いとてもそうだ。妾を持ってる手合いは世間ざらにある。あの人は同じ妾囲いをしても、隠しだてなどをしないから、世の中でとやかくいうのだが、お父さんは梶はそこはかえって見上げたものだと思ってるくらいだて。それもお前を妾にくれというのじゃなしさ……」
「けれども、あの人にはちゃんと奥さんがあるんじゃありませんか」
「そ、それだが……先方では妻にくれろというのだから、今の細君をどうするとかこうするとかそれはむこうに思わくがあってのことに違いないとお父さんは思ってるがどうだ。何しろこっちは先方の言い分を信用して……」
 おせいは惘《あき》れるばかりだ
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