がおくれるくらいになっているのを知りながら、それをどうすることもできない自分を思うと、自分は苦しい。けれども今度のだけは是《ぜ》が非《ひ》でも断れ。そんなことが書いてあった。
「どうでしょうな」
五つ紋の古い紬《つむぎ》の羽織を着たその男は、おせいの方をも一度じっと見て、その眼を父の方に移した。
「どうだな、おせい」
父はまたその男の眼を避けるようにおせいを見るのだった。おせいは身がすくむような気がして、恨めしそうに父を見かえした。
「浅田さんもさっきからこれほど事をわけて話してくださるんだから、お前、何んとか御挨拶をしないじゃならんぞ。お父さんもそうたびたび千歳からかけて足を運ぶわけにはいかないしよ」
と父は、いっそう腕を固く組んで、顔を落して説き伏せるように一語一語に力を入れた。
それでもおせいは何んと答えようもなかった。ようやくのことで唾を呑みこんで、居住まいをなおしながら下を向いた。
「いや、こりゃ私がいちゃかえって御相談がまとまりますまい。私は勧業の方の人に用もありますししますから、これでひとまずお暇とします。……じゃお嬢さん、ひとつよくお考えなすって。仲人口《なこうどぐち》と取られちゃ困りますが、お父さんと私とは古いおなじみだから、けっして仇やおろそかに申すんじゃないんですから、どうか、そこんところをお忘れなく……」
そしてその人は父と簡単な挨拶を取り交わすと、そこにあった書類をいちいち綿密に鞄の中にしまいこんで座を立った。おせいが父のあとについて送りだそうとすると、浅田は、
「お嬢さん、もうようございます。何、星野さんちょっとお顔を」
いったので、おせいはわざと遠慮した。二人は部屋の外の階子段の上で、あれこれ十分ほどもほそぼそと話をしていた。なぜともなく五体が震えるのを、寒さのせいかと思って、腰を折って火鉢の上に手をかざした。壁が崩れ落ちたと思うところに、日章旗《にっしょうき》を交叉《こうさ》した間に勘亭流《かんていりゅう》で「祝開店、佐渡屋さん」と書いたびらをつるして隠してあるような六畳の部屋だった。建てつけの悪いガラス窓が風のためにひどい音を立てて、盗風《すきまかぜ》が屋外のように流れこんだ。
父はやがて小むずかしい顔をして帰ってきた。「寒い家だどうも」とあたりを見まわしているのが、千歳の家を知りぬいているおせいには気恥かしいくらいだった。
「どうだ」
「私はいやです」
おせいは即座に答えた。父はむっ[#「むっ」に傍点]としたらしかったが、やがてしいて言葉を和らげながら、
「そう膠《にべ》なくいっては話も何もできはしないがな。浅田さんのいうとおり、年のところに行くと少し明きすぎるようだが、わしらのような暮しでは一から十まで註文どおりにいかないのは覚悟していてくれんと埒《らち》はあくものではないぞ。……先方では支度も何もいらないと言うのだ。支度がいるようでは恥かしい話だが、今のところお父さんには何んとも工面がつかんからなあ」
「先様は何んという人です」
「先方はお前、今も浅田さんがいうとおりなかなか○持ちで、自分が貧乏から仕上げたのだから、嫁は学問がなくてもやはり苦労して育ったしとやかなのが欲しいと、まず当世に珍らしい……」
「何という人なんです」
「名か、名はその、梶といって、札幌では……」
はたして兄からいってきたとおりだった。おせいはあまりといえば父もあまりだと思った。
「そんなら私はどうしてもいやです。幾人も妾《めかけ》を持っているような高利貸のところになんぞ……お父さんもちっと考えてくださればいいに」
といううちに、彼女は胸が熱くなって涙ぐんでしまった。兄さんですら、小さい時、あれほど自分を可愛がってくれた兄さんですら、まるで自分の事しか考えてはいないし、お父さんはお父さんで、自分の娘だか、他人の娘だか区別のないような仕向け方をする、と思うと、おせいは誰にたよる的《あて》もないのを感じた。彼女はこの五年の間の苦しい女中奉公の生活――それは光明も何もない、長い苦しみの一つらなりだった――を思いめぐらした。始めて小樽に連れだされたのは十七だった。まるで山の中から拾ってきた猿のようなあしらいを受けた。箸の上げおろしにも笑いさいなまれ、枕につくたびごとに、家恋しさと口惜しさのために忍び泣きで通した半年ほど。貰った給金は残らず家の方に仕送って家からたま[#「たま」に傍点]に届けてよこす衣類といっては、とても小樽では着られないものばかりなので、奥さんからは皮肉な眼を向けられ、朋輩からは蔭口《かげぐち》をたたかれる。それをじっと堪らえて、はいはいといっていなければならぬ辛らさ。月日は経ったけれども、小学校で少しばかり習い覚えた文字すら忘れがちになるのに、そこのお嬢さんたちが裕《ゆた》かに勉強して
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