できなかったが、答えようともしなかった。
やがて咳をしるべに純次が小道を下りてきた。孵化場《ふかじょう》から今帰りがけのところとみえて、彼が近づくと生臭い香いがあたりに香った。ぼんやりした黒い影が清逸の後ろに突っ立った。
「今ごろ何んだってこんな所に来るだ。病気が悪るくなるにきまってるに。兄さんはまるで自分の病気を考えねえからだめだよ。皆んな迷惑するだ」
いかにも突慳貪《つっけんどん》にその声はほざかれた。
「背中をさすってくれ」
清逸はきれぎれな気息の中からそういった。ごつごつした手がぶきっちょうに清逸の背中を上下に動いた。清逸はその手の下でしばらくの間咳きつづけた。
咳がやんでも純次はやはりさすり続けていた。清逸は喀痰《かくたん》を紙に受けていくらかの明るみにすかしてみた。黒い色に見えて血がかなり多量に吐きだされていた。彼は咄嗟にそれを丸めて水中に投げようとしたが、思いかえして自分の下駄の下に踏みにじった。この川下に住む人たちは河の水をそのまま飲料に用いているからだ。
純次はまだ懸命に兄の背中をさすり続けていた。清逸は一種の親しみを純次に感じて、
「もうよくなった。さあ帰ろう。お前は仕事が終えるとずいぶん疲れるだろうな」
といってやった。
「あたりまえよ」
純次の答えはこうだった。そして河岸《かわぎし》まで行って、清逸の背中を撫でていた両手をごしごし[#「ごしごし」に傍点]と洗った。清逸は同情なしにではなく、じっと淋しくそれを見やった。
弟が泥靴のままでぬかるみの中をかまわず歩いてゆく間に、清逸は下駄をいたわりながら、遅れがちに続いた。たそがれというべき暗らさになって、行く手には清逸の家の灯だけが、枯れた木叢の間にたった一つ見やられた。純次は時々立ち停っては、もどかしそうに兄の方を顧みた。先に帰れと清逸がいってもそうはしなかった。
「兄さん、お前はまた札幌に帰るのか」
とある所で純次は兄を待ちながら突然にいった。清逸はそうだと答えた。
「死んでしまうぞ。帰らねえがいい」
それがいつか、母に向って、「肺病はうつるもんだよ」といった弟の言葉だった。純次はどうせ辻褄《つじつま》の合わないことをいう低能者ではあった。しかし今の言葉に清逸は、低能でない何人からも求められない純粋な親切を感ぜずにはいられなかった。
純次は兄の近づくのを待ってまたこういった。
「お前は偉くなろうとそんなことばかり思っているから肺病に取りつかれるんだ。田舎にいろよ、じきなおるに」
「そうだなあ、俺もこのごろは時々そう思う。おせいにも可哀そうだしな」
「そんだとも、皆んな可哀そうだな。姉さん泣いてべえさ」
清逸は不思議にも黙って考えこみたいような気分になった。そしてすべての人から軽蔑されているだらし[#「だらし」に傍点]ない純次の姿が、何となくなつかしいものに眺めやられた。その上彼の偶然な言葉には一つ一つ逆説的な誠があると思った。純次はどことなく締りのない風をして、無性に長い足をよじれるように運ばせながら、両手を外套の衣嚢《かくし》に突っこんだまま、おぼつかなく清逸の眼の前を歩いていった。人生というものが暗く清逸の眼に映った。
その夜清逸は純次の部屋でおそくまで働いた。純次の机の上からつまらぬ雑誌類やくだらぬ玩具《がんぐ》じみたものを払いのけて、原稿用紙に向った。純次はそのすぐそばで前後も知らず寝入っていた。丹前を着て、その上に毛布を被ってもなお滲み透ってくるような寒さを冒して、清逸は「折焚く柴の記と新井白石」という論文をし上げようとした。物に熱中した時の徴候《ちょうこう》のように、不思議にも咳は出てこなかった。たまさかに木の葉の落ちる音と、遠い川音とのほかには、純次の鼾《いびき》がいぎたなく聞こえるばかりだった。清逸は時おりぺンを措《お》いて、手を火鉢にかざさねばならなかった。そのたびごとに弟の寝顔をふりかえってみた。仰向けに寝て(清逸には仰向けに寝るということがどうしてもできなかった。仰向けに寝る奴は鈍物だときめていた)放図なく口を開いて、鼻と口との奥にさわるものでもあるらしい、苦しそうな呼吸を大きくしていた。うす眼を開いているのだが、その瞳は上瞼に隠れそうにつり上っていた。helpless《ヘルプレス》 という感じが、そのしぶとそうな顔の奥に積み重なっているように見えた。
清逸は手のあたたまる間、それを熟視して、また原稿紙に向った。清逸は白石は徳川時代における傑出《けっしゅつ》した哲学者であり、また人間であると思った。儒学《じゅがく》最盛期《さいせいき》の荻生徂徠《おぎゅうそらい》が濫《みだ》りに外来の思想を生嚼《なまかじ》りして、それを自己という人間にまで還元することなく、思いあがった態度で吹聴《ふいちょう》しているのに比
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