べると、白石の思想は一見平凡にも単調にも思えるけれども、自分の面目《めんもく》と生活とから生れでていないものは一つもなく、しかもその範囲《はんい》においては、すべての人がかりそめに考えるような平凡な思想家ではけっしてなかったということを証明したかったのだ。徂徠が野にいたのも、白石が官儒として立ったのも、たんなる表面観察では誤りに陥《おちい》りやすいことを論定したかった。この事業は清逸にとってはたんなる遊戯ではなかった。彼はこの論文において彼自身を主張しようとするのだ。これは西山、および西山一派の青年に対する挑戦のようなものだった。
 白石文集、ことに「折焚《おりた》く柴《しば》の記《き》」からの綿密な書きぬきを対照しながら、清逸はほとんど寒さも忘れはてて筆を走らせた。彼はあらゆる熱情を胸の奥深く葬ってしまって、氷のように冷かな正確な論理によって、自分の主張を事実によって裏書きしようとした。ややもすれば筆の先に迸《ほとばし》りでようとする感激を、しいて呑みくだすように押えつけた。彼のペンは容易にはかどらなかった。
 アイヌと、熊と、樺戸監獄の脱獄囚との隠れ家だとされているこの千歳の山の中から、一個の榴弾《りゅうだん》を中央の学界に送るのだ。そしてそれは同時に清逸自身の存在を明瞭にし、それが縁になって、東京に遊学すべき手蔓《てづる》を見出されないとも限らない。清逸は少し疲れてきた頭を休めて、手を火鉢に暖ためながらこう思った。そして何事も知らぬげに眠っている純次の寝顔を、つくづくと見守った。それとともに小樽にいる妹のことを考えた。三人のきょうだいの間にはさまったおびただしい距離……人生の多様を今更ながら恐ろしく思いやってみねばならぬ距離……。けれども彼はすぐその心持を女々《めめ》しいものとして鞭《むちう》った。とにかく彼は彼の道を何物にも妨げられることなく突き進まねばならない。小さな顧慮や思いやりが結局何になる。木の葉がたった一つ重い空気の中を群から離れて漂っていく。そうだ自然のように、あの大自然のように。清逸は冷然として弟の顔から眼を原稿紙の方に振り向けた。そこには余白が彼の頭の支配を待つもののように横たわっていた。彼はいずまいを正して、掩《おお》いかぶさるようにその上にのしかかった。そして彼は書いて書いて書き続けた。
 ふとラムプの光が薄暗くなった。見ると、小さな油壷の中の石油はまったく尽きはてて、灯は芯《しん》だけが含んでいる油で、盛んな油煙を吐きだしながら、真黄色になってともっていた。芯の先には大きな丁子《ちょうじ》ができて、もぐさのように燃えていた。気がついてみると、小さな部屋の中はむせるような瓦斯《ガス》でいっぱいになっていた。それに気がつくと清逸はきゅうに咳を喉許《のどもと》に感じて、思わず鼻先で手をふりながら座を立ち上った。
 純次は何事も知らぬげに寝つづけていた。
 石油を母屋《おもや》まで取りに行くにはいろいろの点で不都合だった。第一清逸は咳が襲ってきそうなのを恐れた。しかも今、清逸の頭の中には表現すべきものが群がり集まって、はけ口を求めながら眼まぐるしく渦を巻いているのだ。この機会を逸したならば、その思想のあるものは永遠に彼には帰ってこないかもしれないのだ。清逸は慌《あわ》てて机の前に坐ってみたが、灯の寿命はもう五分とは保つように見えなかった。芯をねじり上げてみた。と、光のない真黄色な灯がきゅうに大きくなって、ホヤの内部を真黒にくすべながら、物の怪《け》のように燃え立った。
 もうだめだ。清逸は思いきって芯を下げてからホヤの口に気息《いき》をふきこんだ。ぶすぶすと臭い香いを立てて燃える丁子の紅い火だけを残して灯は消えてしまった。煙ったい暗黒の中に丁子だけがかっちりと燃え残っていた。絶望した清逸は憤りを胸に漲《みなぎ》らしながら、それを睨《にら》みつけて坐りつづけていた。
「おい純次起きろ。起きるんだ、おい」
 と清逸は弟の蒲団に手をかけてゆすぶった。しばらく何事も知らずにいた純次は気がつくといきなりがばと暗闇の中に跳び起きたらしかった。
「純次」
 返事がない。
「おい純次。お前|母屋《おもや》まで行って、ラムプの油をさしてこい」
「ラムプをどうする?」
「このラムプに石油をさしてくるんだ。行ってこい」
 清逸は我れ知らず威丈《いた》け高になって、そう厳命した。
「お前、行ってくればいいでねえか」
 薄ぼんやりと、しかもしぶとい声で純次がこう答えた。清逸は夜気に触れると咳が出るし、石油のありかもよく知らないから、行ってきてくれと頼むべきだったのだ。しかしそんなことをいうのはまどろしかった。
「ばか、手前は兄のいうことを聞け」
 弟は何んとも答えなかった。少しばかりの沈黙が続いた。と思うと純次はいきなり立ち上って
前へ 次へ
全64ページ中41ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング