のは彼の家にどれだけの不愉快な動揺を与える結果になったか。そのために父の酒はまずくなる。母と弟とはいい争いをする。これまでとにもかくにも澱《よど》んだなりで静かだった家の内が、きゅうにいらいらした気分でかき乱されはじめた。清逸はその不愉快な気持を舌の上に乗せているように思った。彼の口は自然に唾を吐いて捨てたいような衝動を感じた。
 といって彼は即刻《そっこく》東京に出かけてゆく手段を持ってはいないのだ。神経衰弱の養生のために、家族を挙げて亜米利加《アメリカ》に行っている戸田教授でもいたら、相談に乗ってくれるかもしれない。新井田氏でも、三隅のおばさんでも頼んでみたら、考えてくれないこともないかもしれないが、清逸としてはかりにもそんな所に頼むのはいやだった。それにつけて、清逸はその瞬間ふと農学校の一人の先輩の出世談なるものを思いだした。品川弥二郎が農商務大臣をしていたころ、その人は省の門の側に立って大臣の退出を待っていた。大臣が勢いよく馬車に乗って出てくるのを見ると、すぐ駈けだしていって、否応《いやおう》なしにその馬車に飛び乗った。そして馬車が官舎に着くまで滔々《とうとう》と意見を披露して大臣に口をきく暇をさえ与えなかった。官舎に着くと大臣に先立って官舎に駈けこんで、自分がその家の主人ででもあるように大臣を迎えた。そして自分の意見の続きをしゃべりこくった。大臣もとうとう根気負けがして、注意深くその人のいうことを傾聴するようになったが、その結果としてその人は欧米への視察旅行を命ぜられ、帰朝すると、すぐいわゆる要路《ようろ》の位置についたというのだ。清逸はそれを聞いた時、木下藤吉郎の出世談と甲乙のないほど卑劣不愉快《ひれつふゆかい》なものだと思った。実力がないのではない、実力があればこそ、そんな突飛な冒険にも成功したのだ。けれども藤吉郎もその人も、自分の実力を認めさせないで、認められようとした。それが悪いことだとはいわれない。結局認めさせるのも、認められるのも同じようなことだ。それにもかかわらず、清逸にはそれがとても我慢のできない悪い趣味だとより思えなかった。この気持は三隅にも新井田氏にも彼自身を訴えてみる企《くわだ》てをどこまでも否定させた。渡瀬にでもさせておけば似合わしいことかもしれないと清逸は思った。清逸は、どんどん夜になっていこうとする河の面をじっと見つめ続けながら考えた。
「俺は世話を焼くのも嫌いだ。世話を焼かれるのも嫌いだ。……俺はエゴイストに違いない。ところが俺のエゴイズムは、俺の頭が少し優れているというところから来ていると誰もが考えそうなことだが、そんな浅薄なものではないんだ。たとえ頭は少しは優れていようとも、俺は貧乏でしかも死病に取りつかれているんだから、喜んで世話を焼いてもらう資格は十分にあるんだ。それにもかかわらず、俺は世話を焼かれるのはいやだ。……俺はもっと自然に近くありたいのだ。自然は俺をこんなに生みつけた、こんなに病気にした。しかもそれは自然の知ったことじゃないんだ。自然というものは心憎い姿を持っている」
 清逸はどんどん流れてゆく河の水を見つめながらこんなことを考えた。そしてそのとたん、気がついたように眼をあげてあたりを眺めまわした。実際清逸に見やられる自然は、清逸とは何んのかかわりもないもののように、ただ忙がしく夜につながろうとしていた。河は思い存分に流れていた。空は思い存分に暗くなりまさっていた。木の葉は思い存分に散っていた。枯枝は思い存分に強直していた。その間には何らの連絡もないもののように。清逸は深い淋しさを感じた。同時に強いいさぎよさを感じた。長く立ちつづけていた彼の足は少ししびれて、感覚を失うほど冷えこんでいた。それに反してその頭は勇ましい興奮をもって熱していた。
 昂奮《こうふん》が崇《たた》ったのか、寒い夜気がこたえたのか、帰途につこうとしていた清逸はいきなり激しい咳に襲われだした。喀血《かっけつ》の習慣を得てから咳は彼には大禁物だった。死の脅《おびやか》しがすぐ彼には感ぜられた。彼はほとんど衝動的にその場にうずくまって、胸をかがめて、膝頭に押しつけるようにして、なるべく軽く咳をせこうと勉《つと》めたが、胸の中から破裂するようにつきあげてくる力には容易に勝てないで、二三十度も続けさまに重い気息《いき》をはげしく吐きださねばならなかった。一度血管が破れたら、そこからどれほどの血が流れでるか、それは誰も知ることができない。もし四合五合という血が出たら、それで命は彼からやすやすと離れていくのだ。清逸は喀血のたびごとにそれをもの凄く感ぜねばならなかった。
「兄さんでねえか」
 道の方から木叢《こむら》ごしにこう呼びかける弟の声がした。清逸は面倒なところで嗅ぎつけられたと思って、もちろん答えることも
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