的な機械の製作にかかりたいとあせるのだけれども、渡瀬にとってはそれはさして興味のあることではなかった。渡瀬は蓄音機の機械をどれだけ複雑にすれば、最小限度の複雑化によって最大の効果を挙げうるかを数理的に解決したかったのだ。それゆえ彼は毎日その計算にばかり熱中して、新井田氏が機械の製作に取りかかろうというのを一日延ばしに延ばさせていた。始めの間こそは新井田氏もより進んだ発見が工作費用を節減するものと感じて根気よくその成就を待っているようだったが、計算の仕事がいつまで経っても片づかないのを知ると、そしてその問題が解決されても、日本ではそういう蓄音機を実際に製作するのが困難らしいということをほのめかされると、だんだん性急になってきた。計算計算といって長びいているのは、たんに仕事を長びかせるための渡瀬の魂胆《こんたん》ではないかと邪推しだしたらしいのを渡瀬は感じた。いい加減に切り上げようかと渡瀬の思ったのもたびたびだったが、そうするとこの方の研究は早速打ち切りになって、他の研究がはじまるのを覚悟せねばならない。それは彼にとっては惜しいことだった。それゆえ彼は新井田氏の思わくをできるだけ無視しようとした。
渡瀬は今日もまた新井田氏と罫紙《けいし》とをかたみ代りに見やりながら続けた。
「これがシャッターの回転数と蓄音機の円盤の回転数との関係を示した項式です。こういう具合にシャッターの方をAとし、円盤の方をBとすると、AとTとの積は、一定時間におけるAのヴェロシティすなわちVだから、それからこの項式が出てくるのです。そこに持ってきてBの方はこうなるでしょう」
新井田氏は半分解らないながらも、中腰になったまま、卓によりかかって神妙に渡瀬の説明に耳を傾けているらしくみえた。渡瀬はできるだけ解りやすくと、噛みくだくようにものをいっていたが符号《ふごう》や数字が眼の前に数限りなくならんでいるのを辿《たど》っていくと、新井田氏の存在などはだんだん薄ぼやけてきた。今まで奥さんを眼の前にすえてふやけていた彼の頭はみるみる緊張して、水晶のような透明さを持ちはじめた。数字がたんなる数字ではなくなった。いわばそれらは大きな兵士の群のようだった。そのおのおのが持っている任務と力量とを彼は指揮官のように知っていた。彼はそれを用いてある勝敗を争おうとするのだ。彼の得意とする将棋《しょうぎ》や囲碁《いご》以上にこれは興味のあるものだった。どんな弱い敵に向っても、どんな優秀な立場にあっても、天運というものが思わざる邪魔をしないとも限らない、そこに自分の力量をだけ信用してはいられない投機的な不思議があるとともに、そうした場合自分の力量が、どれほどしなやかに機変に応じうるかを見きわめたい誘惑は大きかった。
渡瀬は説明を続けているうちに、だんだん一つの不安心な箇所《かしょ》に近づいていった。その個所を突破しさえすれば問題の解決は著《いちじる》しくはかどるのだ。そこにもう一度ぶつかって、それを征服してしまおうとの熱意がいよいよ燃えてきた。彼の眼の前で数字が堂々たる陣容を整えて展開した。それが罫紙《けいし》の上をあるいは右に、あるいは左に、前後上下に働きはじめた。渡瀬は仕事たこ[#「たこ」に傍点]のできた太い指の間にイーグル鉛筆を握って、数字と数字との間を縦横に駈けめぐった。しばらくの間鉛筆は紙の余白に細かい数字を連ねていたが、そして渡瀬は神文でも現われてくるのを見る人のように夢中で鉛筆のあとを追っていたが、やがて鉛筆ははた[#「はた」に傍点]ととまってしまった。その瞬間に渡瀬は眼がさめたようになって、今まで書き続けていたところを読み辿ってみた。計算に間違はなかったけれども、項式はもう発展できないように横道に来ていた。
「奇体だなあ」
彼は思わず鉛筆を心もち紙の表面からもち上げて、自分に対して必死の抵抗を試みようとする項式をまじまじと眺めた。
「そこがどうなんです」
新井田氏が依然としてそこにいたのを渡瀬は知った。新井田氏の存在をおぼろげながら意識すると彼がその顧問(新井田氏自身は渡瀬を助手と呼んでいたが)となって、学資の大部分を得ているのを考え合わさないわけではなかったが、それが他人事《ひとごと》のようにしか感じられなかった。渡瀬は「え」といってちょっと新井田氏を見上げただけで、またもや手をかえてその難問題にぶつかろうとした。大きな数がみごとに割り切れた時のような、あのすがすがしい気持を味うまでは、渡瀬の胸のこだわりはどうしても晴れようとはしなかった。彼は鞭《むちう》つように罫紙を裏返した。それは見るまに数字で埋まってしまった。また一枚を裏返した。それもたちまち埋まっていこうとする。しかし計算はますます迷宮に入るばかりで、いつそこから抜けでられるのか予想はとてもつかなく
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