それまでだが、じゃいいんですね」
「だから何がっていってるじゃありませんか」
「だから何がっていわれればそれまでだが……それまでだから一つあげましょう。循環小数みたいですね」
もとよりそこに盃洗などはなかった。渡瀬は膳の角でしずくを切って……もう俺の知ったことじゃないぞ……胡座《あぐら》から坐りなおって、正面を切って杯を奥さんの方にさしだしかかった。
「一人で飲んでいちゃ気が引けるとおっしゃられるとね」
と落着いた調子でいいながら奥さんは躇《ため》らいもせず手を出すのだった。
「御同情いたみ入ります」
渡瀬は冗談じゃないぞと心の中でつぶやきながら急場で踏みこたえた。そして杯にちょっと黙礼するような様子をして手を引きこめた。
「あら」
「味が変っているといけないと思ってね、はははは……奥さん、僕はこれで己惚《うぬぼ》れが強いから、たいていの事は真に受けますよ。これから冗談はあらかじめ断ってからいうことにしましょう」
「まったくあなたは己惚れが強いわねえ」
といいきらないうちに奥さんは口許に袖口を持っていって漣《さざなみ》のように笑った……眼許にはすぎるほどの好意らしいものを見せながら。思ったより手ごわいぞと考えつつも、渡瀬はやはりその眼の色に牽《ひ》かれていた。そして奥さんの今の言葉は、渡瀬を大きなだだっ子にしていっているもののようにも取れば取れないこともなかった。渡瀬はしかし面倒臭くなってきた。いわば結局互に何んの結果に来るものではないのを知り抜いていながら、しいて不意な結果でも来るかのごとくめいめいの心に空想を描いて、けち臭い操りっこをしているのが多少ばからしくなってきた。そして渡瀬の腹には、どうせほんものにはなる気づかいはないという諦めも働いていないではなかった。おまけに新井田氏の帰宅が近づいているのも考えの中に入れなければならなかった。
ちょうどその時、渡瀬の後ろのドアがせわしなく開いたとおもうと、そこに新井田氏が小柄な痩せた姿を現わしたらしかった。渡瀬は前のように考えながらも、やはり奥さんに十分の未練を持っている自分を見出ださねばならなかった。なぜというと新井田氏がはいってきた瞬間に、その眼は思わず鋭くなって、奥さんが良人をどういう態度で迎えるかを観察するのを忘れなかったからだ。
「お帰りなさいまし」
と簡単にいうと、奥さんは体全体で媚《こ》びながらいそいそと立ち上った。渡瀬が注意せずにいられなかったのは立ち上った奥さんの節長《ふしなが》に延びた腰から下に垂れ下っている前垂《まえだれ》の、いうにいわれないなまめかしい感じだけだった。そんなものが眼に焼きつくほどに、奥さんは平生と少しも異ならない奥さんにすぎなかった。彼は坐りなおした自分の膝頭を見やりながら俯つ向いて、苦笑いの影を唇に漂わせるほかはなかった。
強い黄色い光を部屋じゅうに送る大きな空気ラムプの下にいても、新井田氏は血色の悪い人だった。一種の空想家らしくぎらぎら[#「ぎらぎら」に傍点]とかがやく大きな眼が、強度の眼鏡越しに、すわり悪く活き活きと動いた。
「どうも失礼。おはじめでしたか。え、どうぞ。ちょっと用が片づかなかったもんですからおそくなって。……日が短かくなりましたなあ。それに戸外はずいぶん寒うござんすよ」
新井田氏は蛇の皮のように上光りのする綿入の上《うわ》ん前を右手できりりと引張りつけながら奥さんの今まで坐っていたところにきちんと坐った。そして煙管筒を大きな音をさせて抜き取ると、女持ちのような華車《きゃしゃ》な煙管を摘みだした。
三十分ほどの後、新井田氏と渡瀬とは夕食をすませて、二人の間に研究室と呼びならされる暗室のような窓のない小部屋に、四角な粗末な卓を隔てて向いあっていた。小さなラムプのえがらっぽいような匂いと、今まで人気のなかったための寒さとが重くよどんでいた。
渡瀬は、代数の計算と下手な機械のダイヤグラムとが一面に書きつづられているフールス・キャップ四枚を自分の前において、イーグル鉛筆を固く握りしめながら新井田氏に項式の説明を試みているのだった。新井田氏はそのころ流行し始めた活動写真機に興味を持って、その研究なるものをやっていたのだ。自分の手で発声蓄音機を組立ててみたいというのが氏の野心だった。映画用のフィルムの運動の遅速によって蓄音機の方の速度が調節されるようにするのがあたり前だと渡瀬は考えた。しかし日本に来ている蓄音機は簡単な機械であるために、勢い蓄音機の方の改造は諦めて、それが有する速さに応じて写真機の方の速度を調節するように研究せねばならなかった。これならしかし割合に簡単なことで、渡瀬の工夫になる小さな中間機を使用すれば、実際においてある程度までの効果を挙げることができたのだ。新井田氏はその成功に喜び勇んで早く実用
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