いうことなしに不愉快だった。人の噂からおぬいさんを弁護する、そんなしゃら臭い気持は渡瀬には頭からなかったけれども、やはり不愉快だった。
「焼けますかね」
 渡瀬は額越しに睨《にら》みかえした。
「それはお門違いでしょう」
 今度は奥さんの方が待ち設けていたようにぴったりと迫ってきた。
「ははあん、この女はやはり俺をすっかり虜《とりこ》にした気で得意なんだが、おぬいさんに少々プライドを傷けられているな……ひとつやってやるかな」
 渡瀬の胸の中でいたずら者がむずむずし始めた。奥さんが、ごくわずかの間であったけれども、苦界というものに身を沈めていて、今年の始に新井田氏の後妻として買い上げられたのだという事実は渡瀬の心をよけい放埓《ほうらつ》にした。うんと翻弄《ほんろう》してやろう……もしも冗談から駒が出たら――何かまうもんか、その時はその時のことだ……という万一の僥倖《ぎょうこう》をも、心の奥底では度外視してはいなかった。
「図星をさされたね」
 渡瀬はまたからからと笑って、酒に火照《ほて》ってきた顔から、五分刈が八分ほどに延びた頭にかけて、むちゃくちゃに撫《な》でまわした。
「ところが奥さん、あれは高根の花です。ピュリティーそのものなんです。さすがの僕もおぬいさんの前に出ると、慎《つつし》みの心が無性に湧き上るんだから手がつけられない……そんなに笑っちゃだめですよ、奥さん、それはまったくの話です。……何、信用しない……それはひどいですよ、奥さん。僕なんざあとてもおぬいさんのマッチではない。マッチですか。マッチというと相方かな(これはしまったと思って、渡瀬は素早く奥さんの顔色を窺《うかが》ったが、案外平気なので、おっかぶせて言葉を続けた)相手かな……相手になれないと諦める気ばかり先に立つのです。おぬいさんの前に出ると、このガンベもまったく前非《ぜんぴ》を後悔しますね」
「そんなに後悔することがたくさんおありなさるの」
「ばかにしちゃいけません。ばかにしちゃあ……」
 渡瀬はまたあとを高笑で塗りつぶした。この女は生れてから満足した男に出遇ったことがないに違いない。ずいぶんいろいろな男の手から手に渡ったらしいのに、それだからたまには不愉快なほど人擦れがしているくせに、どこかさぐり寄るような人なつっこいところも持っている。こういう女に限って若い男が近づくと、どんなにしゃん[#「しゃん」に傍点]としているように見えても、変に誘惑的な隙を見せる。おまけにこの女は少し露骨すぎる。星野に対してはあの近づきがたいような頭の良さと、色の青白い華車《きゃしゃ》な姿とに興味をそそられているらしいし、俺を見ると、遠慮っ気のない、開けっ放しな頑強さにつけ入ろうとしている。そのくせいい加減なところに埒を造って、そこから先にはなかなか出てこようとはしない。いわば星野でも、俺でも、そのほかあの女の側に来る若い男たちは、一人残らず体《てい》のいいおもちゃにされているんだ。おもちゃにされるのが不愉快じゃないが、それですまされたのでは間尺《ましゃく》に合わない。埒に手をかけて揺ぶってやるくらいの事はしても、そしてこの女がぎょっとして後すざりをするくらいなことになっても、薬にはなるとも毒にはなるまい。渡瀬は片眼をかがやかしながら、膳から猪口を取り上げて、無遠慮に奥さんの方にそれをつきだした。奥さんは失礼だという顔もせずに、すぐに銚子を近づけた。
「奥さん、あなたも杯を持ってきませんか。一人で飲んでるんじゃ気がひけますよ」
 渡瀬はそう無遠慮に出かけてみた。
「私、飲めないもの」
 酌をしながら、美しい眼が下向きに、滴り落ちる酒にそそがれて、上瞼の長い睫毛《まつげ》のやや上反りになったのが、黒い瞳のほほ笑みを隠した。やや荒《すさ》んだ声で言われた下卑たその言葉と、その時渡瀬の眼に映った奥さんの睫毛《まつげ》の初々しさとの不調和さが、渡瀬を妙に調子づかせた。
「飲めないことがあるものか、始終晩酌の御相伴《ごしょうばん》はやっているくせに」
「じゃそれで一杯いただくわ」
 渡瀬はこりゃと思った。埒がゆさゆさと揺《ゆす》ぶられても、この女は逃げを張らないのみか、一と足こっちに近づこうとするらしい。構えるように膝の上に上体を立てなおして、企《たくら》みもしないのに、肩から、膝の上に上向きに重ねた手の平までの、やや血肥りな腕に美しい線を作って、ほほ笑んだ瞳をそのままこちらに向けて、小首をかしげるようにしたその姿は、自分のいいだした言葉、しようとしていることを、まったく知らない無邪気《むじゃき》さかとみえるほど平気なものだった。渡瀬に残されたただ一つのことは、どたん場で背負投げを喰わない用心だけだ。
「いいんですか」
「何がよ」
 すぐこういう答えが出た。
「ははは、何がっていわれれば
前へ 次へ
全64ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング