く感心していたんだ)。円山|曰《いわ》く『どこで修業するつもりだ』、『W専門学校に行って矢部さんの講義を聞こうとおもう』、『札幌から紹介状でも貰ってきたか』、『来ん』、『じゃ俺が書くからこれから行ってみろ』……辞儀を一つする……貰いものの下駄をはく……歩く(ここは長し)……早稲田という所は田圃《たんぼ》の多いところだ。名詮自称《みょうせんじしょう》だ。……大隈の大きな屋敷を外から見た。W専門学校に着いた……他の奇なし。
「矢部さんは円山さんよりよほど愛想がいい。写真で片眼のべっかんこ[#「べっかんこ」に傍点]なのは知っていたが、ひどい若白髪だ。これはだいぶクリスチャンらしかった。俺も相当|鞠躬如《きっきゅうじょ》たらざるを得なかった。知合いの信者の家に空間があるかもしれないからいっしょに出かけてみようといって、学校から七八町くらいだ、表書きの家は、そこに連れていってくれた。そこのお内儀さんが矢部さんを見るとマルタが基督《キリスト》にでも出喰わしたように頭を下げるので、俺は困った。俺は白状すると矢部さんよりもマルタの方によけい頭が下げたいぐらいだったから。東京の女は俺の眼から見ると皆な天使のようだぞ。
「俺の部屋は四畳半で二階の西角だ。東隣りは大きな部屋だが畳を上げて物置になっていて、どういうものか鼠の奴がうん[#「うん」に傍点]といる。夜になると盛んに遊弋《ゆうよく》をやって賑《にぎ》やかでいい。けれどもだ、俺の所には喰うものはないからややもすれば足の先および耳鼻の類が危険だから、俺はかじられないだけの用心はしている。これより先、じつは俺は足の先をすでにかじられかかったんだ。けれどもだ、縁の先には大きな葡萄棚《ぶどうだな》があって、来年新芽を吹きだしたら、俺は王侯《おうこう》の気持になれそうだ。
「何しろ学校で袴《はかま》と草履《ぞうり》をはかないのは俺だけだ。足の裏が丈夫なら草履ははかなくともいいが袴ははかなければいかんといやがる。けれどもだ、袴をはけとは規則書に書いてないから勝手じゃないかと俺はいうた。足の裏はもとより丈夫だが、脛っぷし――というものがあるかないか、腕っぷしがある以上はありそうなものだ――だって丈夫だからな。俺はこれをサンキロティズムに対してサンバカミズム(Sansbakamism)と呼ぶだ。
「矢部さんの講義は何んといっても異色だ。嶄然《ざんぜん》足角を現わしている。経済学史を講じているんだが『富国論』と『資本論』との比較なんかさせるとなかなか足角が現われる。馬脚が現われなければいいなと他人ながら心配がるくらいだ。図書館の本も札幌なんかのと比べものにならない。俺は今リカードの鉄則と取っ組合をしている。
「さてこれからまた取っ組むかな。
「大事にしろよ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]西山犀川
 十月二十五日夜
     *    *    *
「ガンベさん、あなた今日から三隅さんの所に教えにいらしったの」
 渡瀬は教えに行った旨《むね》を答えて、ちょうど顔のところまで持ち上げて湯気の立つ黄金色を眺めていた、その猪口《ちょこ》に口をつけた。
「おぬいさんって可愛いい方ね」
 そういうだろうと思って、渡瀬は酒をふくみながらその答えまで考えていたのだから、
「あなたほどじゃありませんね」
 とさそくに受けて、今度は「憎らしい」と来るだろうと待っていると、新井田の奥さんは思う壷どおり、やさ睨《にら》みをしながら、
「憎らしい」
 といった。そこで渡瀬はおかしくなってきて、片眼をかがやかして鬼瓦《おにがわら》のような顔をして笑った。笑う時にはなお鬼瓦に似てくるのを渡瀬はよく知っていた。
「この女は俺の顔の醜《みにく》いのを見て、どんなに気をゆるしてふざけても、遠慮からめったなことはしないくらいに俺を見くびっているな。醜い奴には男の心がないとでも思っているのか。ひとついきなり囓《かじ》りついてどのくらい俺が苦しめられているか思い知らしてやろうかしらん」
 渡瀬は真剣にそうおもうことがよくあった。そのくらい新井田の夫人は渡瀬に対して開けっ放しに振舞ったし、渡瀬は心の中で、ありえない誘惑に誘惑されていたのだ。この瞬間にも彼にはそうした衝動が来た。渡瀬は笑いからすぐ渋い顔になった。
「あら変ね、何がそんなにおかしいこと」
 といいながら、銚子《ちょうし》の裾の方を器用に支えて、渡瀬の方にさし延べた。渡瀬もそれを受けに手を延ばした。親指の股に仕事|疣《いぼ》のはいった巌丈な手が、不覚にも心持ち戦《ふる》えるのを感じた。
「でもおぬいさんは星野さんに夢中なんですってね」
 女郎《じょろう》上りめ……渡瀬は不思議に今の言葉で不愉快にされていた。「おぬいさん」と「夢中」という二つの言葉がいっしょに使われるのが何んと
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