良しましょう、すぐしましょう」と書いた旗が、どういうきっかけだったか、その瞬間に柿江の眼にまざまざと映って、それが見る間に煙のようにたなびいて消えていった。
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「星野清逸兄。
「俺はやっぱり東京はおもしろい所だと思うよ。室蘭《むろらん》か、函館《はこだて》まで来る間に、俺は綺麗さっぱり北海道と今までの生活とに別れたいと思って、北海道の土のこびりついている下駄を、海の中に葬ってくれた。葬っても別に惜しいと思うほどの下駄ではむろんないがね。あれは柿江と共通にはいていたんだが、柿江の奴今ごろは困っているだろう。青森では夜学校の生徒の奴らが餞別《せんべつ》にくれた新しい下駄をおろして、久しぶりで内地の土を歩いた。けれどもだ、北海道に行ってから足かけ六年内地は見なかったんだが、ちっとも変ってはいない。貴様にはまだ内地は Virgin《ヴァージン》 soil《ソイル》 なんだな。
「郷里にもちょっと寄ったがね、おやじもおふくろも、額の皺が五六本ふえて少ししなびたくらいの変化だった。相変らずぼそぼそと生きるにいいだけのことをして、内輪に内輪にと暮している。何をいって聞かせたってろくろく分りはしないのだから、俺は札幌の方を優等で卒業したから、これから東京に出て、もっとえらい大学で研《みが》きをかけるんだといい聞せておいた。何しろ英語を三つ四つ話の中にまぜれば、何をいっても偉いことのように聞こえるんだから、じつに簡単で気持がいいよ。たとえばこういう具合だ。
『おとうさまは知るまいが東京には University《ユニヴァーシティ》 という大学があって、象山先生の学問に輪をかけたような偉い学問ができる。そこに行くと俺でも Student《ステューデント》 という名前を貰って、Sociology《ソシオロジイ》 and《アンド》 English《イングリッシュ》 grammar《グラマー》 and《アンド》 Chinese《チャイニイズ》 literature《リタラチャー》 というようなむずかしいものを習うだ。どうだね、もう二三年がところ留守にしてもいいずら』
『げえもねえことを……象山先生より偉くなったらどうする気だ』
俺の方では佐久間象山より偉い人間は出てこようがないとしてあるんだ。けれどもだ、おやじは俺が大の自慢で、長男は俺の後嗣《あとつ》ぎ相当に生れついているが、次男坊はやくざな暴れ者だで、よその空でのたれ死でもしくさるだろうと、近所の者をつかまえて眼を細くしている。おふくろは六年も留守にしていた俺がいとしくって手放しかねるようだが、何一つ口を出さない。そして土間の隅で洗いものなどをしながら、鼻水を盥《たらい》に垂らして、大急ぎですすり上げたりしていた。
「けれどもだ、何をいうにも東京なら近いからということで、俺はとうとう郷里を出た。 Student になると学資ぐらいは自分で働きだすのだといって聞かせたら感心していたようだった。
「東京は俺にとっては Virgin soil だ。俺は真先に神田の三崎町にあるトゥヰンビー館に行って円山さんに会った。ちょうど昼飯時だったが、先生、台所の棚の上に膳を載せて、壁の方に向いて立ったなりで飯を喰っていた。湯づけにでもしていたのだろう、それをかっこむ音が上り口からよくきこえた。東京にこんなことをやって生きている人間があろうとは俺は思わなかったよ。トゥヰンビー館といえば、札幌の演武場くらいを俺は想像していたんだが、行ってみたら、白官舎を半分にして黴《かび》を生やしたような建物だった。俺もやはり英語に出喰わすと、国のおやじにひけ[#「ひけ」に傍点]を取らない田舎者だと思って感心した。
『ダントン小伝』を寄稿したのは俺だといって自分を紹介したら、円山さんは仏頂面《ぶっちょうづら》に笑い一つ見せないで、そんなら上れといった。俺もそんなら上った。とにかく西洋館で、――とにかく西洋窓のついた日本座敷で、日曜学校で使いそうな長い腰かけと四角なテーブルがおいてあった。円山さんというのがいったい西洋窓のついた日本座敷みたいに、こちんこちんした無愛想な男だ。『何しに来た』、『修業に来た』、『何んの修業に来た』、『社会問題の修業に来た』、『学資がないんだろう』、『そうだ』、『俺に周旋《しゅうせん》しろというのか』、『まあそうだ』、『家は貧乏か』、『信州の土百姓だ』、『俺たちといっしょに働く気か』、『それはまだ分らない』、『その答はよし』(なんだべらぼうめ――べらぼうという言葉は東京の書生がことごとに使う言葉で、俺はその後に使い覚えた。けれどもだ、この場合の俺の心持を現わすにはじつに都合がいい。本当は俺はその時、円山さんは恐ろしく高飛車に出たもんだなと、胸の中で長たらし
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