なるばかりだった。
「変だなあ」
 そう渡瀬の唇はおのずから言葉となった。そして鉛筆は堅くその手に握られたまま停止してしまった。
「そんなむずかしい計算をしなければこれは分らないのですか」
 と新井田氏がそのきっかけをさらって口を入れた。すぐ癇癪《かんしゃく》を立てる、こらえ性のない調子が今度の言葉には明かに潜んでいた。渡瀬はそれを聞くと、これはいけないぞと思った。そしてはじめて新井田氏の存在を正当に意識の中に入れてその人を見やりながらつくろうような笑顔を見せた。口をゆるめると、今まで固く噛み合っていた歯なみが歯齦《はぐき》からゆるみでるい軽い痛みを感じた。
 不断はいかにも平民的で、高等学府に学んでいる秀才を十分に尊敬しているといいたげな態度を示している新井田氏でありながら、こういう場合になると、にわかに顔つきまで変ってしまって、少し加減してみせるとすぐつけあがってきやがると言わんばかりの、傲慢《ごうまん》な、見くだしたような眼の色を、遠慮もなく渡瀬の顔に投げてよこすのだった。しかしながら渡瀬はそれしきのことで自分の仕事を中止する気にはなれなかった。彼は好んでとぼけた様子をしながら、
「それはできないことはありませんがね……ま、もう少し待ってください。じきです。これさえ解ければ完全なものになるんですから……」
 といって、ふたたび罫紙に眼を落した。新井田氏はそれに対して別に何んともいわなかった。けれどもしぶとい奴だと言わんばかりな眼が、渡瀬の額の生えぎわのあたりを意地悪くさまよっているのは、明かに渡瀬の神経にこたえてきた。まだだいじょうぶと渡瀬は思った。そこで彼はふたたび新井田氏をそっちのけにして、行きづまった計算の緒口《いとぐち》をたぐりだしにかかった。
 今度こそはと意気組を新たにしてかかった。数字がだんだんとその眼の前で生きかえり始めた。彼は今度は同じ項式の分解を三角法によってなし遂《と》げようと企《くわだ》てた。彼の頭の中にはこの難問題の解決に役立つかとおもわれるいくつかの定理が隠見した。鉛筆を下す前にその中からこれこそはと思われる一つを選み取らねばならぬ。彼は鉛筆の尻についているゴムを噛みちぎって、弾力の強い小さな塊を歯の間に弄《もてあそ》びながらいろいろと思い耽《ふけ》った。
 突然インスピレーションのように一つの定理が思いだされた。胸にこみ上げてくる喜びをじっと押し殺して、参謀の提出した方略を採用する指揮官のように、わざと落ちつき払いながら鉛筆を動かし始めた。今度こそはすべてが予期どおりに都合よく行きそうにみえた。一度分解した項式が結合をしなおして、だんだん単純化されていくところからみると、ついには単一の結論的項式に落ちつきそうにみえた。渡瀬は今まで口の中に入れていたゴムを所きらわず吐き捨てて、噛りつくように罫紙の上にのしかかった。
 けれどもやはりむだだった。八分というところに来て、ようやく二つに纏《まと》め上げた項式をいよいよ一つに結び合せようとする段になって、どうしてもそれが不可能であるのを発見してしまった。
「畜生」
 思わず渡瀬は鉛筆を紙の上にたたきつけてこう叫んだ。
「渡瀬さん、私はもう行きます」
 その瞬間にこう鋭くいい放された新井田氏の声を聞いて、渡瀬はまたもや現実の世界に引き戻された。もうそこいらには新井田氏の癇癪《かんしゃく》の気分がいっぱいに漂っていた。渡瀬は思わず突っ立った。
「どうも私はこういうことは困りますな。なるほど研究には違いなかろうけれども、私のは機械がともかくできてさえくれればそれでいいんです。君のなさるようなことを、ここでこうしてぼんやり眺めていたところが、何んの薬にもなりませんから、私はごめん蒙《こうむ》ります。すっかり冷えこんでしまいましたお蔭で……」
「ははん、先生、腹立ちまぎれに明日から俺を抛《ほう》りだそうと考えているな。こりゃこうしちゃいられないぞ」……渡瀬の頭に咄嗟《とっさ》に浮んだのはこれだった。しかし彼は驚きはしなかった。彼にはこの危地から自分を救いだす方策はすぐにでき上っていた。彼は得意先を丸めこもうとする呉服屋のような意気で、ぴょこぴょこと頭を下げた。そのくせその言葉はずうずうしいまでに磊落《らいらく》だった。
「やあすみませんまったく。こちらに来るまでに計算はこのとおりやっておいて、結果が出るばかりになっていたのだから、すぐできるとたかをくくっていたんですが、……これで計算という奴は曲者ですからなあ。今日はそれじゃ僕は失敬して家でうん[#「うん」に傍点]と考えてみます。作るくらいならあんまり不器用な……」
「そりゃそうですとも、作る以上は完全なものにしたいのは私も同じことじゃありますが、計算までここでやってるんじゃ、私は手持|無沙汰《ぶさた》で、まど
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