ことができなかった。園が出ていった戸口の方にもの憂《う》い視線を送りながら、このだだ広い汚ない家の中には自分一人だけが残っているのだなとつくづく思った。
ふと身体じゅうを内部から軽く蒸《む》すような熱感が萌《きざ》してきた。この熱感はいつでも清逸に自分の肉体が病菌によって蝕《むしば》まれていきつつあるということを思い知らせた。喀血《かっけつ》の前にはきっとこの感じが先駆のようにやってくるのだった。
清逸はわざと没義道《もぎどう》に身体を窓の方に激しく振り向けてみた。窓の障子はだいぶ高くなった日の光で前よりもさらに黄色く輝いていた。
しかしどこに行ったのか、かの一匹の蝿はもうそこにはいなかった。
* * *
“Magna est veritas,et praevalebit.”
それが銘《めい》だった。園はその夜|拉典《ラテン》語の字書をひいてはっきりと意味を知ることができた。いい言葉だと思った。
段と段との隔たりが大きくておまけに狭く、手欄《てすり》もない階子段を、手さぐりの指先に細かい塵を感じながら、折れ曲り折り曲りして昇るのだ。長い四角形の筒のような壁には窓一つなかった。その暗闇の中を園は昇っていった。何んの気だか自分にもよくは解らなかった。左手には小さなシラーの詩集を持って。頂上には、おもに堅い木で作った大きな歯車《はぐるま》や槓杆《てこ》の簡単な機械が、どろどろに埃《ほこり》と油とで黒くなって、秒を刻みながら動いていた。四角な箱のような機械室の四つ角にかけわたした梁の上にやっと腰をかけて、おずおず手を延ばして小窓を開いた。その小窓は外から見上げると指針盤《ししんばん》の針座のすぐ右手に取りつけられてあるのを園は見ておいたのだ。窓はやすやすと開いた。それは西向きのだった。そこからの眺めは思いのほか高い所にあるのを思わせた。じき下には、地方裁判所の樺色《かばいろ》の瓦屋根があって、その先には道庁の赤煉瓦、その赤煉瓦を囲んで若芽をふいたばかりのポプラが土筆草《つくし》のように叢《むら》がって細長く立っていた。それらの上には春の大空。光と軟かい空気とが小さな窓から犇《ひし》めいて流れこんだ。
機械室から暗窖《グランド・セラー》のように暗みわたった下の方へ向けて、太い二本の麻縄が垂れ下り、その一本は下の方に、一本は上の方に静かに動いていた。縄の末端に結びつけられた重錘《おもり》の重さの相違で縄は動くのだ。縄が動くにつれて歯車はきりきり[#「きりきり」に傍点]と低い音を立てて廻る。
左の足先は階子の一番上のおどり段に頼んだが、右の足は宙に浮かしているよりしようがなかった。その不安定な坐り心地の中で詩集が開かれた。「鐘の賦」という長い詩のその冒頭に掲げられた有名な鐘銘《しょうめい》に眼がとまると、園はここの時計台の鐘の銘をも知りたいと思った。ふと見ると高さ二尺ほどの鐘はすぐ眼の先に塵まぶれになって下っていた。“Magna est veritas,et praevalebit.”……園にはどうしても最後の字の意味が考えられなかった。写真で見る米国の自由の鐘のように下の方でなぞえに裾を拡げている。その拡がり方といい勾配《こうばい》の曲線の具合といい、並々の匠人の手で鋳られたものでないことをその鐘は語っていた。
農学校の演武場の一角にこの時計台が造られてから、誰と誰とが危険と塵とを厭わないでここまで昇る好奇心を起したことだろう。修繕師のほかには一人もなかったかもしれない。そして何年前に最後の修繕師がここに昇ったのだろう。
札幌に来てから園の心を牽《ひ》きつけるものとてはそうたくさんはなかった。ただこの鐘の音には心から牽きつけられた。寺に生れて寺に育ったせいなのか、梵鐘《ぼんしょう》の音を園は好んで聞いた。上野と浅草と芝との鐘の中で、増上寺の鐘を一番心に沁みる音だと思ったり、自分の寺の鐘を撞きながら、鳴り始めてから鳴り終るまでの微細な音の変化にも耳を傾け慣《な》れていた。鐘に慣れたその耳にも、演武場の鐘の音は美しいものだった。
ことに冬、真昼間でも夕暮れのように天地が暗らみわたって、吹きまく吹雪のほかには何の物音もしないような時、風に揉《も》みちぎられながら澄みきって響いてくるその音を聞くと、園の心は涼しくひき締った。そして熱いものを眼の中に感ずることさえあった。
夢中になってシラーの詩に読み耽《ふけ》っていた園は、思いもよらぬ不安に襲われて詩集から眼を放して機械を見つめた。今まで安らかに単調に秒を刻んでいた歯車は、きゅうに気息《いき》苦しそうにきしみ始めていた。と思う間もなく突然暗い物隅から細長い鉄製らしい棒が走りでて、眼の前の鐘を発矢《はっし》と打った。狭い機械室の中は響だけになった。園の身
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